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究極のワガママ女。確かに、それが私の姿かもしれない。

究極のワガママ女。

と、私の父は、私によく言う。
良い意味でもあるし、悪い意味でもある、と。

誉め言葉であると、思っておこうかと。

色々あるけどさー、
なんだかんだ、21歳くらいの時にこの仕事を始めて。
なんとも。うん、思うところは沢山あったし、今もある。

だけど、私の名前で仕事を始めたのが21歳くらいでした。
父親は一度、もう別の道に進もうと、この屋号を使わずにいたから、その屋号を使って、父親と一緒にやろうと(=それしか道が見えなかった)
だから、私の名前で仕事をするようになったのです。
そもそも、父親は元来は会社経営をしていたから、会社をたたんでから、その屋号を使っていて。とはいえ、別に愛着もなかったと思うけど。それでいえば、別に、私もこの屋号に愛着なんぞない。歴史はあるけど。

仕事の話なんか、過去も現在も未来も、話が止まらなくて、ただのマシンガンいけそうです。

私の人生の半分近く、こうやって自分の名前で仕事をしていて。そもそも論で、多少ブレようが、多少傷つこうが、自分の中に信じている芯がなければ、続けることはできないわけです。

ビビって、自分の名前を捨てられないか考えたことも。今思えば、大したことのない小さな失敗。ただ、逃げられないですからね。

そんなこと言ったって、今だってクレームひとつで、凹むわけです。もう今となっては、私の味方はどこにもいないんじゃないか、と思うくらい、私自身が考えるしかないし、最適解がどれか、結局私しか決められない。最終的に、右に出るか、左に出るか、その結果を享受するのは自分自身。

こんなことは分かり切ってるし、もう逃げられないのも分かり切ってるし。十数年、もうすぐ二十年に手が届くわけで。

別に、孤独だと言いたいわけじゃない。私にはいつも父親がいるから。
だけど、私は父親じゃないし、父親は私じゃないし、それぞれの立場で合わない意見だって、終わらない話だって、たくさんずっとしてきて、どこかズレているかもと思うと、そんな簡単に話は終われない。理解できない、では終われない。

でも、1年くらい前のある日。私は、怖いだけかもしれないって、気付いた。父親が年老いてきて、少しずつ前よりできる仕事が減ってきて、そんなのは分かり切ってることだから、そんなのはずっとずっと考えながらやってきて、父親の比重を減らして、父親のすべては道楽の余剰金であれ、と。理想通りではないけれど、悪くない程度には、大筋外れていない程度には、少しずつシフトしているわけさ。納得できる程じゃないけれど。

そうなんだよ。だからこその、焦燥感。不安。先取りした孤独感。

時々思うんですよ。私は、胃瘻チューブと点滴と、人工呼吸器に繋いででも父親の死を受け入れることはできないかもしれないと。

何が言いたいのか、脱線しまくっていますけれど。

誰と戦っているわけでもないはずなのに、いつだって臨戦態勢。実は私の築いている要塞は、かなりの防御力があるのではないかと思っている。そして何のためにかは分からんけど、ひたすらに磨き続けている攻撃力。仮想敵とのシュミレーションだって、最早ルーティーン。

しかし、古すぎて役に立たないという危険性をはらんでないか、時々不安になって、情報あさりも、それなりには。

良いか悪いかは、知らんけど。

世界は、小さな世界の積み重ねだと思っていて、だから私は、自分の小さな世界は大事にしたいし、私のできることは自分の小さな世界を守る程度のことでしかないし。

そんな私の気持ちみたいなものを、現実世界に落とし込んで生きていると、どうやら、究極のワガママ女が出来上がるようです。

本当に本当に、本当に。私は最低かと思うのだけれど。
夫は、次元が違うのだ、と思ったら、ものすごく私の中で腑に落ちて。
だから、同じ世界に、生きていない。

自分の思考が、危ういものかもしれない、とは思っている。別に、ここに書いているのは、戯言です。ここは、戯言置き場だから。

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