見出し画像

杉原千畝のすばらしさ


みなさん杉原千畝という人物をご存じですか?
恥ずかしながら私は、聞いたことはあるけど、パッ!となにした人か
説明できないなというくらいの認知でした(笑)

たまたま見つけた映画が彼の人生を描いたものでした。
彼の決断に感銘を受けたので、みなさんにもご紹介できたらと思います。


杉原千畝ってなにしたひと?

外交官として各国の調査や交渉を行った杉浦。外国の方でも発音しやすい
千畝の音読み「センポ」の愛称で慕われていました。
以下年表にまとめてみました。

1900年1月1日 
岐阜県八百津町にて誕生。
八百津町で少年時代を過ごし、その後、父の仕事の関係で三重県や名古屋市で生活する。

1917年
愛知県立第五中学校を卒業。
父の希望により京城医学専門学校を受験するも、白紙答案を出し不合格
となる。

1918年
早稲田大学に入学したが、1919年中退し外務省の留学生としてハルビンに
留学。
 
1924年
任外務書記生となり、2月満州里在勤命令、12月にはハルビン在勤命令が
でる。

1932年
満州国外交部特派員公署事務官となる。

1933年
北満鉄道の譲渡を巡りソ連との交渉を始める。

1937年
ソ連勤務を命じられていたが、ソ連から入国を拒否され、
フィンランドのヘルシンキ公使館勤務になる。

1939年
リトアニアの首都カウナスに領事館開設を命じられる。

1940年
7月、ユダヤ難民への日本通過ビザの大量発給をはじめ、
8月26日までに、計2139家族に日本通過ビザを出す
8月下旬カウナス領事館を閉鎖。
9月初旬カウナス駅より国際列車にてベルリンへ出発。

1941年2月28日
ドイツ領のケーニヒスベルク総領事館勤務を命じられ、
11月にはルーマニアのブカレスト公使館を命じられる。

1945年
ブカレスト郊外の捕虜収容所に収監される。

1947年
4月に帰国(九州博多)。6月に外務省退官。

1960年
商社の事務所長としてモスクワ赴任。
以後、会社を二度変わったが、引き続き現地で勤務。

1968年
千畝がビザを発給して助かった
ニシュリ氏と28年ぶりに再会する。

1969年
難民時代に杉原が助けた
バルハフティク・イスラエル宗教大臣から勲章を受ける。

1985年
イスラエル「諸国民の中の正義の人賞」(ヤド・バシェム賞)を受賞。
日本人ではただ一人。

1986年
神奈川県鎌倉で死去。

このように世界で活躍した杉浦。彼は、ナチスの目を盗み逃れてきたユダヤ人を救うため、彼らにビザを発行することを決めました。日本の外務省には認められなかったが、彼は「首になっても構わない、人道上拒否できない」と、条件をつけずにすべてのユダヤ人に対し、ビザを発給する決心したのでs。

一人でも多くの命を救うために、入国ビザを必要としない南米キュラソー
行きの『命のビザ』を少しの時間も惜しんで書き続けた千畝は、領事館を
退去した後もホテルで渡航許可証を書いた。さらに、いよいよ出国という
最後の日も、駅に押し掛けてきたユダヤ人たちに発車間際まで渡航許可証を
書き続けた。最後の渡航許可証は車窓から手渡したのでした。

杉原千畝の発給した命のヴィザ

画像1

彼に救われたユダヤ人は6000人以上であるといわれている。さらにこのビザで救われた人の子孫も合わせると、現在25万人以上にも及ぶと言われ、
世界各国で活躍している。


彼から学ぶこと

彼の勇気ある決断は大生の命を救った。日本の外務省に認められていない状態で独断で決行することは相当の覚悟だったと思います。

「苦慮、煩悶の揚句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。
そして私は、何も恐るることなく、職を賭して忠実にこれを実行し
了えたと、今も確信している」
(『決断・命のビザ』より 渡辺勝正編著・大正出版刊)

彼が決断する際に残した言葉です。博愛精神とは皆にひとしく親愛の情を持って接するという考え方のことです。彼は外交官である前に一人の人として決断したのです。
地位や名誉、役職にとらわれず、”いのちはみな平等である”という
あたりまえのことを貫ける素晴らしい人だと思いました。

これから先、杉浦千畝のように自分のためではなく、
誰かのために決断していきたいと思いました。


最後に、映画もおすすめなので観てみてください!

https://youtu.be/NTXOT-RdMk8


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?