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新橋のサラリーマンは蒸留家になれるでしょうか -すべては2003年のフランスから始まっていたのかも-

今までの記事では、来年の春に蒸留家としての新たなスタートを切るための準備(というには初歩の初歩ですが)と心境について書いてきました。もっと吐き出したいことはたくさんありますし、文字にできているのはせいぜい2割くらいかなと感じていますが、書くとはそういうことだと思って内容が熟成するまで頭というタンクに寝かしておくことにします。

遡ること19年前

1年先を見据えて現在地を確認するアプローチと並行して、この目標を意識することになった"根っこ"の部分をほじくり返してみたいと思います。

日本酒に目覚めて日本中の蔵元を巡った2013年あたり?

仕事として携わった日本酒や日本産食品の海外事業で飛び回った2017-20年あたり?

ワインをもう一度学ぼうと決意した2020年?

結婚してからのこの10年に想いを馳せると、実に多くの今日の気持ちにつながるきっかけがあったことに気づかされます。きかっけと考えることもできるし、その時からすでに無意識の意思に突き動かされていたのかも知れません。(ここで書くことはしませんが)仕事の中身と私個人の志とが合致するわけもなく、組織に所属して提供した役務は"労働"とどこかで割り切っていた節もあるので、「仕事が未来に繋がった」としてしまうのはご都合主義的に聞こえてしまいますが、サラリーマンをやりながらここまで酒と食に頭を支配されていた人間もそう多くはないのではないでしょうか。

でもさらに記憶を遡ると、いや意図的に遡らずとも間違いなく全ての原点がここだと思える出来事があります。あの時の倍以上の年齢になりましたが、忙殺された時も、仕事に夢中になった時も、刹那的な楽しみに興じた時期も、かつてのこの地点から自らを定点観測するように、文字通り"原点"と感じられる出来事です。

19年前、2003年の夏に遡ります。

大学3年の夏、ワインとの邂逅

大学3年生。二十歳の夏でした。第二外国語として履修していたフランス語の先生に誘われて行ったフランス。

パリ→ボーヌ→ボルドー→マルセイユ→コルシカ島→パリ

に滞在する2週間の旅程でした。今でこそこの行程を見るだけで小躍りしたくなりますが、これがワイン研修と言われてもピンとこないのが当時の二十歳というものです。

御多分に洩れず、お酒との出会いは大学のサークル活動の飲み会。浴びるように、ときには罰ゲームで流し込む液体、それが酒でした。ビールなのか焼酎なのかサワーなのかもはや何でもよくて、日本酒やワインは「一気飲みしづらいもの」くらいでしかなかったように記憶しています。

そんな私がどんな風の吹き回しなのか、この研修企画に参加していたのです。今思うと、授業は寝ていたのに旅行企画アナウンスの時だけ耳が冴えていた自分を褒めるしかない。そして即座に行くと答えた若気の至りにも拍手しかありません。

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めくるめく夢のような日々でした。地平線まで広がる葡萄畑、ワイナリーでの見学、造り手のおもてなし、地元料理とワイン、そして葡萄収穫の手伝い。

海外であることと一緒に参加した仲間がいたことももちろんあったと思います。それでもこの旅行が確実にこの先の自分に少なからぬ影響を与えることをじわじわと予感していました。

ただのフランス旅行のはずだった

行く前は、学生特権の長い夏休みを充実させてくれる海外旅行くらいの認識でした。海外だーフランスだーパリだわーい、みたいな。

終わってみると、ただの海外旅行後の余韻とは違うものでした。今までのアレとは圧倒的に違うなと感じることって数少ないのですが、明らかに違う。大学1年の時に3週間ヨーロッパ周遊、2年の時にベトナム・カンボジアを旅行していて、海外での体験で覚える興奮への期待値はもっているつもりでしたが、全く違うベクトルで突き抜けていくような、新たな地平を感じる旅の余韻だったのです。

余談ですが、前述の通りこの旅はワイン研修ということもあり、名だたるワイナリー/シャトー/ネゴシアンに直接伺って、見学したりガーデンパーティーしたり地下カーブで購入したりという、今となっては思い出すだけで鳥肌が立つような行程でした。

下の写真はおそらくシャトー・オーブリオンの貯蔵庫です。ここで樽熟成前の新酒を試飲もしました。ロゴ入りグラスだったなあ。マダムの気品に圧倒されたなあ。写真ボケてるなあ。

気が向いたら&家のどこかから見つかったら、当時の旅行記を紐解いてnoteであの時間をじっくり反芻してみたいと思います。

なお、トップの画像はサンテミリオンの町です。

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価値軸を定めるには2週間で充分だった

バイトとサークルに明け暮れる20歳の大学3年生にとって、ともすればひと夏の思い出で消化されてしまうたった2週間の旅行だったのかも知れませんが、「間違いなく生涯の価値観に影響する時間」だと私に確信させるには、2週間で充分でした。

別に、食の仕事に就こうとかワインを仕事にしようと決意をしたわけではありません。ただ漠然と「造り手という職業があるんだ」という実感と、海を越えて波及する文化・ブランド・魅力が世界にはごまんとある事を二十歳の夏に体で知ることができた事実こそが、その先の就職活動や職種・働き方・思考方法を導いてくれる羅針盤であったわけです。

また余談ですが、これは2週間いつもカメラとメモを持ち歩いていた私が撮った、2週間で一番好きな写真です。マルセイユからコルシカに向かうフェリーの甲板での夕暮れ。楽しくて踊る仲間たち(と自分)。

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発酵そして熟成

そしてついに時は来た。

なーんて、かっこいい話ではないです。それから20年近く、私の思考と行動原理の根っこで羅針盤となったその2週間は、卒業し就職し結婚し息子が生まれ、いい時もそうでない時も過ごしながら、あくまでも無意識下で大事な役割を担ってくれていました。

アイデアがいつも煮詰めきってぐっすり寝た後に生まれるように、この羅針盤の原材料であるその2週間は、じっくりとエッセンスを凝縮させ、日々の刺激から生まれる脳内物質を野生酵母として、何になるでもなくゆっくりと変化・発酵を続け、無限の情報を代謝しながら、私と家族という器の中で20年近い熟成を経ました。

そろそろかな。

樽出し、つまりアウトプットする時期が来たんじゃないか。

家族の変化や世の中の変化、会社組織と自身のあり方の再考、挑戦とリスクのバランス、起きる事すべてを受け入れることができるようになった今、今度は自分から"事を起こそう"というシフトチェンジもありじゃないか。

発酵・熟成を終えた羅針盤が脳内からの「もうそろそろじゃない?」の声に耳を傾け、持ちうる全ての情報を冷静に俯瞰し、家族との新しい時間を想像しながら「うん、そうだね」と答えられるまでに約20年かかりました。

20年ですよ、短くない。20年も何やってたのという気持ちもないわけではない。今年40歳になる。一般的には、遅めの再出発なんて言われるでしょう。焦ってるとか会社から逃げるだけとかファッション移住とか言われるんだろうな。

でもそれでいい。自分らしい。自分の中にあるものだけで決めたわけだし。

そんなわけで、決意して足を踏み出した自分の後ろにある景色をノスタルジックに振り返ってみるとこういうことです。いや、表現できたのは20%くらいかな。筆力は生涯の課題ですね。

今でこそ大きい恩師の存在

もうひとつ。忘れたくても忘れられないのは、この研修旅行の企画者であり、そして来年以降思い描く私のビジョン形成に大きく影響与えたひとりのフランス語の先生の存在です。

加藤雅郁先生。

直接フランス語を習ったわけではありませんし、話せたのは現地での2週間だけでしたが、言葉足らずを承知で表現するとすれば"大きな"存在でした。

これからのnoteで度々登場するであろう加藤先生(隊長と呼ばれていました)ですが、残念ながら2012年に急逝されました。もうすぐ10年が経とうとしています。隊長はかつて「日本でシードルをつくるのが夢だ」と語っていたことがありました。私一人が背負えるものでは到底ありませんが、その夢がどうしても他人事のように思えなくなってきたのがここ数年。熟成が最終段階に入ったサインだったのかもしれません。

以前のnoteで「果実の蒸留酒(ブランデー)」をつくることを目標にすると書きました。その果実の大本命は林檎。林檎のたくさん生まれる北の大地で、その林檎から生まれるシードルの声に耳を傾けながら、蒸留という形でその声を再結晶化する、情緒的に表現すればそんなことをやっていきたいと考えています。

そんな夢見がちな未来を描きながら、現実に即した地に足ついた準備をコツコツ進めていきます。

以上、「なんで果実のお酒?」への答え合わせも兼ねての述懐でした。

さあ次の準備!

#39歳の転職活動

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