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新橋のサラリーマンは蒸留家になれるでしょうか -"手造り"焼酎って?-

気づくと8月でした。
いや"気づくと"というのは実は逃げで、6月後半から1ヶ月以上にわたって強烈な「どうでもいい感」に襲われまして、仕事をやっつけるだけの最低限のCPUしか動かずだったのです。

ますます言い訳っぽいな。

反射的に言い訳が出てくるようになったら人生潮時って、いつも他人に対して心の中で思っていることが自分に向かうとは、情けなし。

暑さのせいでも、環境のせいでも、誰かのせいでもなく、なんの理由もなく「ただ自分がクソ時間を過ごした」という事実を受け入れることが再起する唯一の方法でもあります。
8月になってようやく再起動しました。

オーガニックとかサステナブルとか、別にいいけど

もはやどの食イベントに行っても、どの食関連誌を読んでも、バズってる人気者が唱える食ワードを見返しても、出てくるのはありがたそうなカタカナばかりですね。

オーガニックでつくってフェアトレードで調達してエシカルに楽しんでいるからサステナブルでSDGsなんです、って。。。

つっこむ気力を振り絞るのも虚しい。
その言葉の意味を問うことも思考することもきっとほぼないのでしょうし、食べるたびにそんなこと考えなきゃいけないのも不健全というもの。別にいいんです。

言葉の響きだけに踊らされて好き放題買っていいね合戦に興じてさ。仕掛ける側の思う壺って気づけよ、という話でもありません。

飛びつきやすい言葉を開発してもらってまで消費しないと健全な精神が保てない大人が、このまま次の世代を育てて、未来の日本に送り出すことになんとも言えない危機感を覚えます。

言葉に踊らされる人には2種類いる

自分も含めて、物量は満ち足りているのに次の消費対象を求める現代人は大きく2種類に分けられると思っています。

一方は
「言葉に踊らされていることを甘んじて受け入れている人」
もう一方は
「言葉に踊らされないと消費欲求を満たせない病気でかつ自覚症状すらない人」

自分は前者だと信じたいですが、たまに後者に成り下がっているのではとハッとすることがあります。
次々と言葉が生まれることも、マーケティングという手法がこれからも経済を回す手段であることも否定はできないですし、そこに課題意識を持つことで何が生まれるわけでもありません。

自分ならどう踊るか。

新しい言葉や概念に出会った時に、そういう意識を持つようにしています。
基礎教育で得た知識とそれまでの経験を総動員してどう理解するか、みたいなものです。
理解するだけの基礎知識が足りないと感じれば調べる。幸いなことに調べる方法はいくらでもあるし、情報も無限に転がっています。
問いを持って調べて、自分なりの解釈を見出して、その言葉へのスタンスを決めた上で、自分の都合に合わせて受け入れる。それが"踊る"ということのような気がします。

後者の消費中毒者が親になってしまうと、ほぼ間違いなく消費中毒者を再生産してしまいます。
なんとか前者で踏みとどまりたいものです。

 自然派、ナチュラル、クラフト・・・・

この5年くらい、食界隈のパワーワードといったらこのあたりではないでしょうか。
明確な定義を求めずに、言葉の響きと文脈に応じた派生のさせやすさであっという間に市民権を得たフレーズたちですが、先日ある焼酎蔵を訪問した際にも今更ながら気付かされたことがあります。

「手づくり焼酎」

かなり多くの焼酎のラベルにこういう表記があります。言われるまであまり気にも留めなかったのも反省ですが、そもそも手づくりってどういうことなんだろうと聞いてみたら、

焼酎造りに必要な「麹」を手づくりすること

なんだそうです。つまり温度管理や機械換気ができる自動製麹機なんかを使わないということです。
発酵は微生物が行うわけだし、蒸留も本質的にはサイエンスの範囲だと考えると、人為が介入できるとしたらそれ以外の工程になる訳ですが、なるほど。。。そこか、手づくりって。



麹造りに機械が使われているか否かなんて、機能的にも情緒的にももはや大差ないように感じますが、"手づくり"という言葉の発明で差別化を見出そうとしていた時代が確かにあったのだと、歴史に触れた瞬間でした。

これって"クラフト●●"の先駆けですね。


"手づくり"焼酎への不覚

ここでの私の不覚は2つあります。
1つは、それまで意味も考えずに"手づくり"を無意識にありがたかっていたこと。
もう1つは、人を踊らせる言葉は時に時代を超えてしまう事実に今更気づいたこと。

その言葉の生まれた時代から環境も一変し、本質が陳腐化していった言葉でも、強い後押し(この場合は業界による定義化)があれば子や孫の世代まで流通し続けるということ。たとえそれが化石化していてもです。


その時代のマーケティングに踊らされるとしても
踊らされている自分を客観視しよう、
客観的になるために"言葉"を反芻しよう、
反芻できるだけの頭の基礎体力を磨こう、
無限の消費欲求を満たし続けるだけの貧しい大人を再生産しないようにしよう。

思考停止が思考停止を再生産してしまう。
この国の全ての課題の根っこにある基本原理だと私は考えます。

できれば
踊らされるのではなく、自分で踊れるようになろう、な訳ですが。




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