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新橋のサラリーマンは蒸留家になれるでしょうか -やっぱり紙のノートもやめられない-

note書きはじめて3ヶ月くらい。実験的に使ってみようと思い立ったものの、意外といいなと思える部分とやっぱ紙のノートだよなという思いが半々です。

3ヶ月で得た確信としては、

noteと紙のノートは違うものでいい、ということ。

それぞれに使う意図や目的があって、noteを始めたからといって紙のノートを使うことが減ったということもないし、やっぱ紙だねって回帰することもなさそうです。

書いて思考を見える化することには大きな意味があると今でも思っている一方で、noteと紙ノートそれぞれに役割があるはずと結論から今日は考えてみます。

書けるようになるために書くnote

情報技術がより良い民主主義のためにあるのだとしたら(この仮定は大事)、noteはすでに上手に書ける人たちだけのためではなく「ちゃんと自分の言葉で書ける人」を増やすためのものではないでしょうか。

私もうまく書けないので書いています。

自分の言葉を編む練習、言葉を選ぶ練習、思考の断片に順序と方向性を与える練習、自分のアイデアや思想を相対化する練習、いろいろな練習をここでやっている気がします。どの練習も、日常の口語のやり取りだけでは物足りないし、紙ノートにどれだけ書き連ねても同じ練習はできないことがわかりました。

私個人の感覚に過ぎませんが、組織の構成要員としての会社員には「自分の言葉」を積極的に紡がないといけない局面はほとんどありません。

大きな事業領域を要素分解して、カテゴリーごとに担当を細分化し、世の成功事例に共通項を見出してモデル化し、個別ケースにその一般解を当てはめて個別解を量産する。これが近代以降の日本を代表する最もありふれた労働形態「会社員」が全力を発揮できる生産様式です。「個の多様性」とか「個人の裁量」というのはこの根本を支える生産様式を是とした前提でようやく意味をなす概念に他なりません。

だとすると、その一人ひとりの思考や言葉がいちいちオリジナルであっては前提からうまくいかないわけですよね。「自分の言葉」は組織内での折り合いとバランスに先立つものではありません。

誤解を招かないよう補足すると、これはこれで戦後日本の躍進を象徴する様式美であって、何ら否定することもありませんし、この前提を無批判に享受しながら10年以上会社員やってきた身としては、敢えて自己否定する自虐に酔うことの方が幼稚な気がします。

17年経って、もし今属する大きな組織から離れて生きていくとすると、その折り合いやバランス感からも卒業していく年頃です。自分の言葉を紡ぐ練習ってそういうことなのだと感じています。

"自分の言葉を"書けるようになるために書くnote。

もう少し練習を重ねてみたいと思います。

すぐに忘れるために書く紙ノート

では紙ノートは今まで何のために書いてきたのか。

この答えはすごく簡単。「すぐに忘れるため」です。

どこかで読んだ大事な話、思いがけずに気づいたアイデア、いい空間だなって思った時のラフなスケッチ、構想を可視化するための殴り書き、どうでもいい落書き、生産者やアーティストを訪ねた時の取材メモ、明日使えるいい小話ネタ、紙ノートの中身ってだいたいこういう「断片」です。

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今読んでも全然理解できない内容だったり、もはや鮮度を失った賞味期限切れの内容だったりするわけですが、とりあえず書いてしまうのはすぐに忘れて次のこと考えたいから

書かれたものを見てみると、個々の内容に関連性・一貫性は全くなくて、意味ありそうな無さそうな羅列が延々と続いていきます。ハイデガーの引用をしたかと思えば1行下では硝酸還元菌についての誰かの話をメモしていたり。

かれこれこんなカオスな紙ノートは何冊になったでしょうか。だいたい1年弱で1冊使い切るくらいのペースでしょうか。もう無くなってしまったものも含めて20冊くらいあるかもしれません。

手前味噌になりますがこの「忘れて次に行く」のテンポ感は、知識の相対化や仮説づくりにおいてとても役に立っているように思います。論理的にうまく説明できませんが。

きっとこれからもどんどん書いてどんどん忘れていくのでしょう。忘れてなんぼ、忘れられた紙上の文字が一人歩きして勝手に発酵していくのもまた後年の楽しみの1つです。

両者に共通する大事な目的

noteも紙ノートもそれぞれに役割があって、これからも共存させていけばいいじゃなかと、結論ありきで考えてみました。

ひとりの蒸留家(なれるかわかりませんが)として、自分の言葉がどのように生まれて紡いでいけるかには、今まで以上に強く興味を持ち続けなければと感じています。蒸留という行為が孕んでいるアートとサイエンスの両側面を表現に昇華していく鍵はやはり言語化に尽きますし、発信することを躊躇わないことは21世紀を生きていく大事な生存本能に違いありません。

ではnoteにも紙ノートにも共通する「やる目的」って何でしょうか。

それは「思いついた順に行動しないため」です。

仕事での段取りがうまくいかない人、いつも他人を待たせる時間コントロール不能の人、原因を自分の内部に求めず反射的に環境を言い訳にする人、全てに共通するのは「思いついた順に行動をしてしまう人」です。そのことに気づかないとずっと同じことを繰り返します。このタイプの方々に「計画を立てよう」と言ってもなかなか解決しないのは、自分が思いついた順に行動していることにまだ気づけていないからです。まずは気づいてもらう努力から。

思いついた順に行動することの最も大きな弊害は「いつかやろう、が一生できない」ことです。これってつまり自己実現が前に進まないということなので本当に深刻です。さらに表面的には、毎日作業に追われて1日があっという間に終わって今日もよくやった自分にご褒美乾杯!という心地になるので、なかなか本人が気づかないという問題があります。困りものです。

というわけで、いい意味でもそうでない意味でも会社員人生が長かったので、人生哲学と呼べるようなことは数少ないですが、数少ない哲学の1つ「思いついた順に行動するな」でした。

自己実現云々というのは本人だけの問題だから勝手にさせてあげれば、という考えもあるかもしれませんが、共創型の社会には避けては通れない大事な前提だと私は考えています。

noteとノートは「思いついた順に行動しないため」に続けていく。

以上です。

#39歳の転職活動

#calvados


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