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毛利小五郎コメディアン論

れいゆ大學④⓪ 毛利小五郎コメディアン論


熱心な日本共産党支持者である納谷悟朗が「ルパン三世」で銭形警部という国家権力のはぐれ者を演じていた。そうしたメタフィクション的な面白さも、いまとなっては情緒的に感じられるのである。

かつて吹き替えの黎明時代、それは舞台役者にとって時間を拘束されずにギャラを受け取れるアルバイトであるのと同時に、本来の仕事ではないという複雑な心情もあった。役者なのに姿を見せていないという揶揄も孕んだ言い方である「アテ師」は、やがて「声優」というコケティッシュな名称に変異していった。

老舗コメディ劇団テアトルエコー出身で納谷悟朗の弟子である神谷明は、おしゃれなアウトローのルパンとガサツな正義漢の銭形を足して二で割ったようなキャラクター、私立探偵毛利小五郎を演じた。怪盗ルパンの作者モーリス・ルブランをもじった娘の毛利蘭に、明智小五郎が足されたネーミングである。


公にできない問題が起こり、仁義によって神谷明は惜しまれつつも小五郎役を降板した。神谷明のコメディアンとしての演技は、「名探偵コナン」の世界にバランスを保たせていた。毛利親子があくまで日常的な普通の人間であるから、江戸川コナンや灰原哀の非日常が際立っていた。

黒づくめの組織や公安警察やFBIなどが至近距離にいるのに、毛利小五郎は町内会の人付き合いなどを重視している。そもそも彼は刑事を辞めて探偵になったくらいだから、権力志向がまるでないのだ。お調子者だけど偉ぶらない、そこに小五郎の魅力がある。

名人・神谷明がキン肉マンやシティハンターなど歴代の作品で見せてきた、彼の芸の幅や奥行きはほかの役者には真似できない。たとえば「黒の組織と真っ向勝負 満月の二元ミステリー」という回では、新一が登場したときの小五郎が、「お前はぁ、探偵ボウズのぉ、工藤ぉ、新一ぃ!」と、これはまさに歌舞伎の大見得である。実際には人間はそのような演劇的な発声はしない。アイドル沖野ヨーコへの推し活動にしても、「おぉきのぉ、よ〜こぉ、ちゅわ〜〜〜んっ!」と過剰である。それはキン肉マンの「牛丼ひと筋300年」であり、シティハンターの「もっこり」である。


「ギャグ」は、現在では誤った使い方をされている。R-1ぐらんぷりで一度だけ審査員をした伊東四郎は番組中に出場者たちに失望した。それは最後の喜劇人としての矜持でもあった。ただし、いとうあさこのネタには「健気で素晴らしい」と拍手した。また近年では、審査員が出場者と距離感の近いタレントで構成されるようになったが、彼らは意外にも一発ギャグの羅列に対して厳しい反応をした。

そもそもは、文脈の中にあるものがギャグである。それが演劇でも話芸でも漫画でも小説でも、文脈の中にあるからこそギャグとして具現し、成り立つ。一発ギャグは本来はかなりの邪道だったが、瞬間的な即時的な現代では、逆にそこから背景や奥行きを想像して笑いが生じる仕組みになっている。


対して、二代目毛利小五郎の小山力也はコメディアンではなく、ギャグも持たない。「名探偵コナン」の出演者では、神谷明のほかに茶風林や緒方賢一はコメディアン的な役者である。しかし、小山力也はジャック・バウアーであり、「闘牌伝説アカギ 〜闇に舞い降りた天才〜」の南郷である。

南郷は、少年時代の赤木しげるを結果的に裏社会に誘い込んだ人物であるにも関わらず、その後は物語にあまり登場しない。不良刑事やヤクザは赤木の才能を大いに利用したが、南郷はそこに加わらなかった。それくらい、南郷は真面目な男だ。

南郷と同じく小山力也もまた、シリアスな役者である。そしてそこには、笑いの質についての論考が横たわる。神谷明はテアトルエコー出身であるように喜劇役者の演技であり、小山力也はつかこうへいや別役実がつくる喜劇の演技である。

つかこうへいは、演劇好きの若者が自分の芝居に「お笑い」を求めて観にくることを嫌っていた。なぜなら、純粋な喜劇ではなく、方法論としての喜劇だからである。


本来、阿笠博士の蝶ネクタイ変声機とコナンの演技力による「眠りの小五郎」という機能が、この作品の肝だった。さらにベルモットや赤井秀一や工藤有希子や安室透や怪盗キッドらの変装スパイ合戦も面白さである。沖矢昴が赤井秀一であることを誰が知っていて誰がまだ知らないのか。安室透が公安警察であることを誰が知っていて誰がまだ知らないのか。「名探偵コナン」は、そのような個々の理解と誤解の集合体としての寓話である。

「声を変える」「他人に変装する」といったメタモルフォーゼの応酬が「名探偵コナン」の重要要素なのに、毛利小五郎はほんとうに声が変わってしまったのである。

コメディアンとしての精神の神谷明と、コメディアンではない小山力也。かくして、毛利小五郎は複雑で多面的な人生を生きることとなった。


そんな大きな問題をうまく中和しているのが、毛利蘭である。「ちょっと、お父さ〜ん!」がすべてを解決している。まさにコナン世界の母性の象徴である。アニメーションの表も裏も救済する女神である。

しかし、にも関わらず、オタク女子の一部は蘭ちゃんに嫉妬し、さらにその嫉妬を憎悪に変える。哀ちゃんとコナンがずっと子供のままで仲良くあればいいなどと残酷なことを言う。

彼女らは漫画やアニメの登場人物同士を恋人に見立てて二人の名前をくっつける遊びをする。たとえば、新一と蘭が恋人であるよりもコナンと哀ちゃんが恋人であってほしいという意味のことを語り出す。

「新蘭よりも コ哀です」などと、「親鸞より伝えられた虚空のあいだ」のような、まるで仏教の話かというような呪文を唱え出すのである。


だから、毛利小五郎コメディアン論を語っとところで、「名探偵コナン」の美青年キャラを愛好する層には、まるで関係がないのだ。しかし、灰原哀を演じる林原めぐみこそが、神谷明が目にかけて育てた役者だった。

悲しい境遇の少女が人間の機微を学んでいき、「笑い」という日常の営みを獲得していく。綾波レイは灰原哀であり、それは時代の写し鏡としてのコメディエンヌのメタフィクション的な現象と言えるだろう。


安室透(降谷零)の属する公安警察は、黒づくめの組織と同じく、林原めぐみの大師匠にあたる納谷悟朗が熱心に支持した日本共産党も監視している。警察に協力しつつも警察にはまったく憧れていない探偵志望の新一(コナン)の暗黙裡の思想的成長にも注目である。何のこっちゃ。


おしまい

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