精神科に行くまでの話

21歳で精神科に行くまでのこと。
鬱々とした青年期を過ごした話。

【注意】
自傷についての記述が含まれます。具体的なことを記載したつもりはありませんが、不快に思われたらブラウザバックしてください。

【本編】
完璧主義とか、頑迷という言葉が当てはまるだろう。何かをする時には動機が純粋であることを強く求めていた。
大学受験の頃には、親に叱られたくないから成績を上げる、ということに対して違和感を抱えていた。希死念慮と自己否定と。
身体を軽んじて、食事を抜いたり、冷暖房を使わなかったりしたこともある。前の記事にもあるが、太ることを恐れてもいた。

大学に入ってすぐ何かが折れたのは事実だ。
大学を休んだら自分が困ることくらいはわかるのに、休んでも親に連絡が入らないんだよな、と思ったらもう行けなくなった(高校は皆勤賞だが、休まなかった理由は、休んだら親に連絡が行くからという点にあるとも自覚していた)
大学1年のゴールデンウィークのあと、1週間くらい家から出られなかった。必修も必修選択も自由選択も、授業は全部休んだ。この時点でまあまあ心配された。

人と自分を比べていた。
あの人みたいに快活ではあれないし面白くもないから、人目に触れないところではあの人より頑張らなきゃいけない、みたいなことで雁字搦めだった。
遅刻すると、それ以降にもう教室に入れなくなって、履修取り消しした講義がたくさんある。奇妙な完璧主義、と言える。100点が取れないなら動けない感覚。

でも、腕や脚が痛い時は悲しいのが誤魔化せて、まだ字が読めるし文章も書けるから平気だと思っていた。
言うまでもないけれど、何も大丈夫じゃなかった。今ならわかるけど、当時はわかってなかった。
フリーズしたパソコンを無理やり落とすみたいに、飲酒して気絶するように眠る日々を過ごした。

離脱できないと思っていた活動があって、必死で続けた。そこで出会った人にずっと支えられて歩いてきた。

深夜に目覚めたら、翌朝出す予定のメールを何回も読み返した。別に適切な表現が生まれたわけもなくて、唯々不安だった。
ほとんどの人は、メールで失礼なことをしたって、直接会った時にでも謝れば許してくれたのに、それだけのことがわからなかったから、完璧を目指していた。新着のメールだって怯えながら、何回も再読み込みしていた。

当時綴った、ただ文字数の合った文章がある。

ディスプレイばかり明るい部屋の中
伊藤仁斎になれそうもない

何回か外で過呼吸を起こして、ウォッカの瓶があっという間に空になって。
それでようやく駄目だと思って病院に行った。
裏返せば、それまで駄目だと思ってなかったのか。
「こんなことで」なんて、たぶん他人がこんな話をしてきたら言わないだろうに。
周りの人に散々心配をかけたのに、気付けなかった。

大学4年の夏から精神科に通い、大学はどうにかストレートで卒業した。
内定がないままで卒業したので、履歴書を書くなら少しの空白がある。

一応卒論らしきものを提出したあと何をしていたかが、あんまり思い出せない。
ハローワークに行き、カウンセリングも受けた。
研修の時間を勘違いしたために遅刻することが確定したことがある。その次にハローワークに行った時は担当の人の前で泣きながら謝った。なんでそんなに、と言われた記憶がある。

発達障害の診断書を提出して手帳を取得したのは、23歳の時だったはずだ。
広汎性発達障害という診断名。そうだとすれば今までの生き苦しさとか、失敗したと思ってきたことに説明がつく。
自分がそうだ、と認めるまでが遠くて、ひどく混乱した。

この辺の経緯を思い出すと、今でも苦しい。
ただ、僕はどうにか生きていて、たぶん必要とされている。
それだけが救いかもしれない話で、
だけど、誰かがそれに救われればいいな、とも、思っている。おこがましいけれど。

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