『仁義なき幕末-令和激闘編-』感想

叫びが、聞こえた気がした。
「生きたかった」「死にたくなかった」「権力が欲しかった」「世界を変えたかった」
それぞれが事切れる瞬間の、後悔の断末魔。

その中で唯一、桜の海に沈んだ男が発した
「楽しかっ(た)」

いやもう、何だこの作品。
見終わって帰る途中の今も、電車の中で頭がガンガンしている。
人間が本来持っているのであろう激しい感情がぶつかり合って、文字通り泥まみれの愛憎劇が繰り広げられる。そう、愛憎劇だと私は思った。

あ、ここからはネタバレ入ります。
映画版も舞台版も。
うぉぉぉ、私は現地で先入観なしで観劇するんじゃい!!という方は回れ右。

さて。
主人公の大友一平は、村田組の長に拾われてその息子・恭次の右腕になったという過去を持っている。恭次は頭は良いけれど腕っぷしはからきし。その恭次と共に在り続けることに、次第に不満を募らせていく一平。
最終的には、幕末の時代に飛ばされた映画版のラストシーンで、元の時代には戻らず龍馬として生きたいと言った恭次を撃ち殺してしまう。

「お前のそういうところが俺はずっと嫌いだった」

そう言った一平に対し、恭次は裏切りを責めるでもなく「そうか、すまなかったな」と詫びる。
それも、最期の力を振り絞って友を抱擁して。

この後、映画版は「坂本龍馬を殺したのはこの俺だ!大友一平だ!」と一平が咆哮するところで終わるのだが、舞台版を観てみると、この台詞には全く別の側面があるように思えてくるのだ。

自分が殺したのは坂本龍馬であって、村田恭次ではないのだと。
一平だけを元の世界に戻し、自分は幕末に残ろうとした恭次。自分の知る恭次という人間が居なくなってしまうことを恐れて、手の届くうちに殺すしかなかった。
それだけ恭次のことが好きだったのだと。

表には出さない嫉妬やフラストレーションを抱えながらも、一平は友として恭次を信頼し、何よりもその人間性が好きだった。その事実を己の中で捻じ曲げて燻り続ける一平を取り巻く、これまた色濃い登場人物たち。
ある者は権力を求め、ある者は己の誠を問い、ある者は己の死の運命と向き合い、またある者は己の仁義を妄信的に押し通そうとする。そうして有象無象が複雑怪奇に絡み合う世界で皆命を落としていく。
超常現象の中で起こる怪異を擬人化したような蘭月童子の存在も相まって、まるでこの世は人智を超えた何者かが創った他愛もない箱庭で、その中で何を成そうとも無意味なのだという真実を突き付けられているようでゾッとするのだ。

けれど、最後に一平と三つ巴を繰り広げる龍馬と伊達は、他の登場人物たちとは一線を画している。
龍馬は世界を変えたい、人々の心に火を灯したいという野望を持ちながら、しかし結局は最も身近なところにいた一平という人間のために命を懸ける。
一方、伊達はそうなった経緯こそ分からないものの、己を生かすのは命の取り合いをする刹那のエクスタシーだけであると言い切り、実際に闘いの中で命を落とす。

ここを、結局どう生きても最後は無しか残らないと解釈するのか、どうせ無に帰すなら思うように生きたらいいと解釈するのか。
それによって、この結末から受ける印象はかなり変わってくるように思う。

推しの狂人っぷりに振り回されて半分くらい思考力と語彙力が死んでいるので、あとで読み返したら恥ずかしくて書き直すかも知れない。
でも、それでも今この瞬間に受け取ったエモさをどうにか書き留めておきたくて、ずっと隣に座っている友人を放ったらかしてこの文章を書いている。

もう暫くすれば地元の駅につき、今晩何を食べるのかを考え、風呂に入り、また明日の予定を立てなければならない。
けれど、変わり映えのしない日常にとんだ感性をぶち込まれたことで、私の人生も多少なりとも変わったりするのだろうか。
恐らく答えはYESなのだ。

最終的には誰もが等しく無に還るのだとしても、今生きているこの瞬間を輝かせてくれる作品を、そういう作品に出逢わせてくれる推しを。
結局のところ、私は愛してやまないのである。

* * *

ここまで書いて、誰が推しとか全然書いてないな!って気付いたんですが、推しは鈴木勝吾氏です。

何かもう凄い役者さんだなと思う。
伊達についての感想を書こうとすると、途端に阿呆になるので、今回はこの辺で。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?