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饗宴『エイリアンハンドシンドローム』再演に寄せる雑感

「DisGOONieSがなくなってしまうらしい」
という寝耳に水のニュースが飛び込んできたのは、三寒四温どころか極寒からの初夏!みたいな狂気じみた気候が果てしなくループする2024年3月中旬のことだった。
第一声は「おい嘘だろ?」
続く感情は、何とも言い難い寂しさだった。

私は鈴木勝吾氏を推しているが、いわゆる古参と言われるファンではない。
勝吾氏を応援しているうちに彼が心から尊敬する西田大輔氏という脚本家を知ったものだから、DisGOONieSに通うようになった年数はさらに短い。
故に、歴戦の友ぶって船への名残を惜しむような発言は控えたいところなのだが、寂しいものは寂しいのだ。だって、あの場所と、あの場所に集う人たちが大好きだったから。

DisGOONieSが幕を下ろすに当たり、最後の演目として選ばれたのは『エイリアンハンドシンドローム』の再演。
言わずもがな、こけら落とし公演として書き下ろされた演目であり、個人的に観られなかったことを後悔していた作品だった。

COVID-19のパンデミックにより、日本では異例の緊急事態宣言が発令された2020年3月。
当時は父親が重病で入院しており、一人で病院へ届け物に通っていた私には、仕事以外で出歩くという選択肢がなかった。
本人には会えず看護師さんに様子を聞くだけではあったものの、外部の人間が病棟へ足を踏み入れるのには責任が伴う。だからこそ感染リスクを高めるような行動は慎まねばならなかった。
けれど仕事は休めない。行動は制約されるのに、自分の身は常に危険に晒されているという矛盾。さらに当時、行き交う人々は皆殺気立っていて、ほぼ毎日のように舌打ちや怒鳴りあう声を聞いた。祖母はその状況を「まるで戦時中に戻ったみたい」と表現したが、世間は本当に殺伐としていたように思う。

そのような状況下から、僅か半年後に西田氏が立ち上げたDisGOONieS。
当時は観劇に想いを馳せる余裕など無かったものだから当然観たいとすら思わなかったし、正直に言えば反感のような感情さえ抱いていた。
しかし。しかしだ。
あの時にあの作品の熱量を浴びていたら、私の中で何かが大きく変わったかも知れないと、今になってそう思うのだ。

* * *

波の音。
ショパンの旋律に乗せて、朗々と歌い上げられる鎮魂歌。

否、初見では観客はそれがレクイエムであるとは気付かない。ただただ、鈴木勝吾氏の透明感と情感が同時に存在する声に魅入られていく…
饗宴『エイリアンハンドシンドローム』は、そんな始まり方をする。

舞台となるのは閉ざされた船内。
観客は7人の男女が〝招き〟〝招かれ〟都度〝うたかた〟の酒を飲んでは全てを忘れていくという不思議な群像劇を見せられる。
彼らに名前はなく、公演パンフレットにも漂流者という役名が振られているだけで、互いを認識することによってその存在が成り立っている曖昧な〝個〟として描かれている。彼らは、劇中で唯一名をもつ〝デカルト〟というAIに選ばれることにより、〝元の世界〟に戻れるのだという。

我思う、故に我あり。

漂流者たちは、その船内らしき空間が何であるのか、世界は今どうなっているのか、何もかもが分からない状態で、ただそこに閉じ込められている。
ある者は大切なものを覚えていないことに絶望し、またある者はいつの間にか狂おしいほどに大切にしていた〝何か〟を忘れていく恐怖に怯え、とにもかくにも元の世界に戻りたいという点においては利害が一致した彼らは、協力して自分たちの置かれた状況を把握しようとする。

やがて、彼らは大きな地震の後に起こった津波に呑み込まれたのだということが分かってくる。
漂流者たちはいわば思念体であるのだが、劇中では彼らが生きているのか死んでいるのか、彼らがいるその空間が何なのか明言されることはない。何らかの因縁によりそこに在るのか、それとも単に偶然なのか、それすらも語られていない。
共通するのは、彼らは何かに心を残したままであるということ。心が壊れてしまわぬように、最も大切なものを忘れているのだということ。

私には、彼らの物語は波間に揺蕩うきらきらした影のように思えた。差し込む光の角度によって、その見え方は全く違ってくる。だから観客である私たちは、それぞれの在りように沿って大切な何かに想いを馳せることができるのだ。敢えて語らないことで心の機微にそっと寄り添ってくれる物語。
そうして回想を終えた時、〝デカルト〟によって確固たるものにされた意思をもって、私たち自身も明日へと出航するのだ。

もう一度、大切な誰かに会える日を夢見て。

* * *

このホンを、あの閉鎖された状況下で書き上げた西田氏はもはや奇才であると思う。
すぐ背後に絶望があった。振り向けば呑み込まれてしまいそうで。人は辛いことこそ忘れるように出来ているから、今となっては夢の中の出来事のようにぼんやりしていたとしても、当時はそんな恐怖が確かにあったのだ。

人は一人では生きていけない。
だからこそ、知らず知らずのうちに誰かとの繋がりを求めて手を伸ばすのだと。

冒頭で述べたとおり、世界が分断され、追い詰められて心が冷え切っていた時にこのメッセージに触れることができていたなら、私の中で変化したものは確かにあったかも知れない。
けれど今、時を経て再演という形で出会えたことにこそ感謝したいと改めて感じている。
全てのタイミングと巡り合わせには、きっと意味があるのだと思うから。

あの空気感を文字に残しておきたい気持ちと、あまり解釈を固めてしまいたくない気持ちが矛盾するものだから、どうにも上手く纏まらないのだけれど。
あの場所で、あの距離感で、『エイリアンハンドシンドローム』を観劇できたことは本当に幸せなことだったと思う。
私は確かにDisGOONieSの出港に間に合ったのだ。

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出逢いにはいろいろな形があって、それは自分が生きる社会の中での遭遇であったり、あるいは大昔の人が遺した思想を知ることであったりもします。
観劇において脚本家の作る世界を覗くこと、あるいは演じる役者に思いを馳せることはちょうどその中間に当たると感じていて、特に西田さんの作品には私がまだ触れたことのない哲学が織り込まれていたりするので、作品を観るたびに新しい視点が増える気がしています。

この世界で生きていく上で、〝美しいもの〟を知っていることはきっととても大切なこと。そして、それを共有しようとする意思も。
よく勝吾さんが「伝えたい」と仰っていることは、きっと大きく括ればそういうことなのだろうと私は解釈していて、だからこそその先にいる役者さんや西田さんという思想の塊に自然と親しみや尊敬の念を抱いたのだと思います。

いつの間にか大好きになっていた船との別れをそっと惜しむ気持ちと共に、演劇をより身近に感じられる新しい形を模索しながらDisGOONieSという場所を作り沢山の出逢いを下さった方々へ心からの感謝を込めて。

本当に、本当にありがとうございました!


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