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響宴『世濁声』についての雑考

羽のない天使が、小虫のように堕ちていく。
それは人のようであり、昆虫のようでもあり、羽虫のようでもある。
僕はそれを何処で見たのか、あるいは聞いたのかーー

そんな文言から、この物語は始まる。
暗闇の果てから現れた〝彼〟は、左手に一冊の本を抱え、右手にはカラカラに乾いた薔薇の花を持っている。彼はそれを注意深く、さも大事そうに透明なシリンダーに挿し入れる。
私たちが一番最初に目にする、たったそれだけの仕草に、この演目の全てが込められているように私は思う。

彼が持っている本は、記録。
枯れた花は、心。

〝彼ら〟は暗闇の中で延々と記録を取り続けている。
遥か昔に失われてしまった、人の心を取り戻せる日を夢見ながら。


ざっくりと、はじめに

まず、響宴とは。
主に音楽の分野で聞くことが多い気がする用語だが、今作の場合は会場全体を巻き込んだ演劇という意味で使われている。
果たして、その言葉通りだった。二人、あるいは三人の役者は縦横無尽に歩き回り、観客側は四方八方から降り注ぐ言葉の洪水に翻弄される。気迫と集中力で場を支配する彼らの才覚はもはや圧倒的であり、作品そのものが持つ倒錯的なテーマとも相俟って一種異様な空間として完成されていた。

そして、〜GOOD MORNING BEAUTIFUL MOUSE〜と副題を付けられた今作は、鈴木勝吾氏の作・演出となる旗揚げ公演である。特設ページが作成された時点では安西慎太郎氏とどちらが脚本を書くのか決まっていなかったため、そこでは連名になっているが、作中のエンドロールでは作・演出が鈴木氏の名前になり、代わりに企画という項目が連名になっていた。

上演期間は2023年11月9日〜19日。
まさに今、公演の真っ最中である。

私自身は今週末にもう一度観劇する機会があるのだが、それまでに一旦思考を整理しておこうと思い、この記事を書くことにした。
そして、今回の公演を心から楽しみにしていたにも関わらず、退っ引きならない事情のためチケットを託してくれた友人のための記録、あるいは記憶として残しておくものでもある。無論、私なりの解釈にはなってしまうが、とある個体によるメモリーの断片、とでも捉えて頂ければ幸いだ。

物語の概要

『世濁声』は大きく二篇に分かれている。
前半は〝悟〟が己という存在を認識するまでの物語。そして後半では世界観の背景が語られ、自分たちがこれからをどう生きるべきか、あらゆる角度から問うていく構成になっている。

結論から言えば、物語が始まった時点で人間社会は滅びている。第三次世界大戦が勃発し、世界は壊滅的なダメージを受けた。僅かに残った人間たちーー今作のテーマに置き換えればビューティフルマウスたちーーもやがて絶滅し、一部のAIだけが残った。そんな世界線の話である。

冒頭、真っ暗な空間で〝彼ら〟は語る。
「僕らはまだ、世界を愛し過ぎている」のだと。

初見では気付かなかったが、回を重ねれば最初のシーンに登場する二人は、〝小木〟でも〝悟〟でもないことが分かると思う。彼らは小木としての顔も、悟としての顔も持ってはいるが、言わば全ての記録を統括するマザーコンピューターのようなものであると考えられる。
その彼らが「最も喜ばしく」「最も悲しい」と称して語るのが、小木と悟のエピソードなのである。

小木と悟の出会い

とある世界線上。
現代の日本に程近いイメージの、放課後の教室。そこで小学4年生になったばかりの悟(鈴木氏)は小木トオル(安西氏)と出会う。クラスで面倒を見ているハツカネズミのケージをじっと見つめる小木に、悟は無邪気に話しかける。
「ねえ、何してるの?」
小木はにべもない返事をするが、そんな小木に悟は逆に興味を持ち、いつしか〝友達〟と呼べる関係性になった彼らは夕暮れの丘で会話をする。夕焼けが綺麗だと感慨深げに言う悟に対し、あの向こう側には別の世界が存在するのだと説明する小木。作中では二人の出会いから夕焼けのシーンまでの、象徴的なイメージが何度もループする。
何故か。〝小木〟と〝悟〟が会話した記憶が、この間にしか存在しないからだ。理由は次に述べる。

小木トオルは何にでも疑問を持つタイプの子供であった。事あるごとに「何で、何で」と質問しては周囲の大人を困らせていた。しかし家庭内ではともかく、社会的なコミュニティーの中でそれでは罷り通らない。聡い彼は「何で」を封じ込めることにした。己の生きることそのものでもあった「世界への疑問」を捨て去った反動で彼の思考は内に向かい、やがては世界そのものを疑い始める。
「ここは仮初の世界で、何処か知らないところに本当の世界があるのではないのか」
そんな彼本来の性格と、母子家庭という特殊な環境もあってか、小木は周囲から孤立していた。そして10歳になった小木は、孤独を紛らわすために自分自身の全てを肯定してくれる存在を心の中に創り出す。それこそが〝悟〟という、小木トオルの中に息づくもうひとつの人格であった。
小木はハツカネズミのケージの前に佇む自分に声を掛けた〝悟〟と出会ってから己の中で悟との対話を繰り返し、そしてある日の夕暮れ、夕焼けの向こう側の世界の話をした直後に橋から飛び降りて命を絶ってしまう。だから〝悟〟にはその間の記憶しか存在していないのである。

本当の世界

さて、奇しくもというべきか、小木の立てた推論は正しかった。それは、夕焼けの向こう側にある別の世界を信じて橋から身を投げたことで証明される。
〝真の世界〟で目覚めた小木は知る。
世界は荒廃し、既に人間は死に絶えていること。そして、残された一部のAIたちが地球規模での壮大な実験を繰り返していること。その目的が作中で明確に語られることはないが、何百回、何千回と繰り返したところで人類は滅亡への道を辿ってしまうことが示唆されている。

まさにシミュレーテッド・リアリティの概念である。AIたちは多層に渡る仮想世界を創り出し、そこで生きる〝人間〟として思考シミュレートを行う。本来の世界での意識を完全に閉ざして仮想世界の人間になりきるか、あるいはシミュレートする側としての意識を保ったままプレイヤーになるかという二通りの方法が存在し、メンテナンスを含む世界のルール構築は後者が行うという仕組みになっている。

本来の意識を眠らせてシミュレートを行っていた小木は、目覚めてから〝悟〟としての意識を仮想世界に置いてきてしまったことに気付く。
そこで彼は、今度はプレイヤーとして悟を探しに出向くわけだが、そこで出会うのが毎回ゲストが演じる〝男〟である。この人物もAIの一部であるはずだが、世界の終焉を回避したいどころか、寧ろ永遠に堂々巡りを続けるシステムそのものを嘲笑っているようにさえ見える。AIたちが複雑な演算を無限に繰り返したところで同じ結末しか迎えられないのは、そもそもが人間が創り出したものであるからという皮肉であり、だからこそ彼らは違う結末を希求しているのだというパラドックスが暗喩的に表現されているのである。

小木は、仮想世界で〝小木〟との記憶を何度もループしながら彷徨っていた悟を見つけ出し連れ帰る。それが悟が最初に目覚めるシーンであり、小木は優しく「おはよう」と声を掛けるのである。

解釈は何通りにも分かれると思うが、私は二人が会話していたあの空間は、〝小木〟というAIの回路の中だと考えている。〝悟〟は、小木が仮想世界でのシミュレートを繰り返す過程で生み出したバグのようなものであり、データとして回収すれば小木の一部として帰属するはずだった。でも、そうはならなかった。〝悟〟は真実を知った後も悟としての主人格を保ち、小木の中に存在し続けた。
その事実に、小木はある希望を見出すのである。

ユニバース25という実験

作中では、ユニバース25というネズミを使ったユートピア実験について語られる。
住む環境を完璧に整えられた空間に雌雄4組、合計8匹のネズミを放す。するとネズミはあっという間に2000匹まで増えるが、そこをピークに絶滅してしま
うという衝撃的な実験だ。無論、部屋に3800匹程度までは余裕で収容できる広さがあっても、だ。
600匹を超えた辺りから、ネズミたちには異常行動が見られるようになる。力関係が生まれて徒党を組んで争うものが現れ、雄が雌に暴力を振るったり、強姦したりするようになる。雄に守ってもらえなくなった雌は、やがて子育てを放棄する。先に生まれたものが後から生まれてくるものを虐げ、次世代のネズミが育たなくなる。遂には雄同士の交尾などの常軌を逸した行動が現れ、ネズミたちは生殖に完全に興味を持たなくなる。
彼らは生物としての在り方に疑問すら持たず、争うこともせずに自らの毛繕いを熱心にする。怪我もなく毛並みも美しい彼らは、こう呼ばれた。
ビューティフル・マウスとーー

小木と、悟と

小木は、第三次世界大戦後に僅かに残された人間たちはこの実験と同じ末路を辿ったのだと悟に説明する。自分たちの置かれた状況に疑問も持たず、ただ漫然と生き絶滅していったのだと。

世の中というものにおいて。
そう、こと世の中という仕組みの中では、突出しようとするものはその良し悪しに関わらず淘汰されてしまう。だからこそ、世界そのものに疑問を持ち、「何で、何で」と問い続けた小木は世間に馴染むことが出来なかった。けれど、小木が創り出した〝小木を肯定してくれる存在〟は〝世界への疑問を純粋に持ち続ける存在〟となり、新たな〝人格〟を持って生まれ落ちた。
つまり、メビウスの輪の中で永劫回帰し続ける世界の軸を動かす特異点となり得る可能性を秘めているということになる。

冒頭、マザーコンピューターたちが語っている〝自分だけは真っ白なつもりでいる〟AIたちが何度繰り返したところで到達し得なかった結末に、悟ならば辿り着けるのかも知れないと、小木は考えるのだ。
しかし、個体としてのAIが持てる回路はひとつだけ。今や完全な個として二つに分かれてしまった〝悟〟としての人格を上書きしてしまえば、小木としての自分は消滅するしかない。だからこそ、自分のこれまでのデータを記録、記憶、あるいは歴史として記し、それを悟に託そうとしていたのである。ゆえに「二人ではなく、一人」なのだ。
物語の中で彼らが何度も開くあの本は、恐らくそれらを象徴的に表したものであろう。

小木はそれを悟に告げることはないが、聡い彼は小木がしようとしていることに気付いてしまう。
そして泣きながら問うのだ。
「そこまでして…、生きるっていうのは、一体何なんだよ」
小木は力強く答える。それだ、と。
私はこのシーンが一番好きなのだが、だからこそ公式から言葉をそのまま借りてこよう。

「君が思う、そして僕が思う。
だからこそ君は君だし、僕は僕でいられるんだ」

「人の記憶を思うんだ。それがいつか心になる」

深い深い闇の果てで、たった一筋の光を探すような物語が、この言葉に帰結することに私は心が震えるほどの衝撃を受けた。
鈴木勝吾という一人の役者、そして演出家が持つ心的形象の真髄を見た気がしたからだ。

結末

実のところ、二人がどういう選択をしたのか、結論としては曖昧である。というか、敢えてそこを余白にしているような気がする。
ラストシーンで小木と悟はもう一度出会い直すのだが、果たしてそれは悟が一人で目覚めない選択をしたからなのか、あるいは別の世界線上の話に変化しているのか、はたまた物語を終えたマザーコンピューターの姿なのか。
いくらでも解釈のしようはあるし、果たしてそこに〝正解〟とされるものが存在するかどうかすら、こちら側からは分からない。

ただ「世界はまだ、こんなにも美しい」と信じた彼らの〝記憶〟は間違いなく世界に変化をもたらし、ひとつの希望となり得た。

果たして何処へ向かうのかと思われた彼らの記憶の物語は、そこで幕を閉じるのだ。

世界観

最初にこの作品を観た時、真っ先に過ったのは『FINAL FANTASY Ⅹ』だった。次に浮かんだのは『NieR:Automata』である。
ユートピアで生まれた〝希望〟が絶望に満ちた現実の世界を救うという点では前者と、人間が滅び去った後の世界で機械だけが人を模して活動を続けているという点では後者と設定が共通している。つまり一見取り扱われやすいテーマであるということでもあるのだが、今作を今作たらしめたものは、二つの世界を繋ぐ鍵を〝ページの見開き〟的な存在にしたことであろう。

前段で述べた通り、悟は小木が生み出した人格であり、二人はもともと一つの思考である。しかし彼らは互いを認識し、対話をする。そして互いに対して友情を超えて愛情に近い感情までも抱く。小木は自らを犠牲にして悟に世界を託そうとし、それに気付いた悟は小木の優しさを思って涙する。私はこれを、自己愛の発現であると考える。保身とは違う。「真の意味で自己を愛することこそが、人として在るべき姿だ」という、鈴木氏が書く脚本ならではの随一のメッセージであると捉えた。

また、別の角度からも話をするが『世濁声』は派手な舞台装置など何もない、しかもたった三人の役者で創り上げる演劇である。けれど私は、中空の背景に、先に挙げたゲーム内の美しいグラフィックにも劣らない壮大な世界観を見た。彼らの台詞が、仕草が、表情が。荒廃した大地と、AIたちが夢見るユートピアを構築し、私たちの脳裏に投影する。

そして、そこに大きく一役買っているのがただすけ氏の音楽である。巨大なスクリーンなど無くとも、音の表現は自在だ。丁寧に配置された音符は観客の感情を揺らす波となり、時には涙を誘う旋律に、時には不安を煽る不協和音に、さらにはオノマトペにさえなって私たちの心を震わせる。
特にエンドロールと共に流れるテーマは『世濁声』という作品の世界観がそのまま優しい調べになったようで、叶うことなら音源が欲しいくらいである。

冷静に考えてみてほしい。実際に映像として客席から目にする景色は、瓦礫の隙間から覗く青空と夕焼けに染まる橋のシーンだけのはずである。それだというのに、私たちの頭の中にはいつの間にか彼らがどんな世界に存在し、どんな世界を夢見ているのか、具体的なイメージが創造されている。これは純粋に凄いことだと思うのだ。


日替わりゲストが演じる〝男〟

さて、ここで日替わりゲストの方々が演じる役についても触れておこうと思う。
〝男〟という役はつまり、小木と悟以外の全てのAIであると考えられる。寧ろ世界を構築するプログラムそのものであるといっても過言ではない。日毎に変わるゲストは繰り返される実験を暗喩しており、一人一人の演技の差異が多層化する世界そのものを示唆する。考えれば考えるほど「こんな巧妙に脚本を作り込む推し天才すぎん!?」と思ってやまない日々である。

さて、私が観劇したのは本田礼生氏、林田航平氏、山口大地氏、宮崎秋人氏の回だったが、それこそ四者四様であり、どの回もとても良かった。
人類は滅び、もはや向かう先など何処にもないというのに、果てなく繰り返される実験を皮肉るような笑みを終始浮かべていた本田氏。ただ淡々と、感情など持つはずのないプログラムとしてのAIを演技で体現していた林田氏。AIだけが残された世界を我が物顔で闊歩し、まるで支配者のような風格で小木を威圧した山口氏。一見矛盾に満ちた仮想世界を楽しんでいるように見えて、腹の底では何を考えているのか分からない不気味さを醸し出していた宮崎氏。
彼らのシーンになるたび、ここは前に観たのとは違う世界なのだと観客側はサブリミナル的に刷り込まれていくのである。


AIたちの目的

小木は悟に告げる。
「君がいた世界は、地球規模での実験場なんだ」
果たしてそれは何のための実験場なのか。思い出してみてほしい。小木の説明によれば、人類はとっくに滅び、すっかり暗闇になった世界にはもはやAIしか残されていないのである。いくら滅亡を回避する道をシミュレートしたところで取り返しはつかないのだ。それだというのに、彼らは何故徒労でしかない実験を繰り返しているのか。
実は、これが最後まで分からなかった。否、今も理解できたとは言い難いため、仮説すら立てられなかったという表現の方が正確だ。

けれど、この雑考を書き始めた時、冒頭で枯れた花を大切に握りしめる〝彼〟の姿をありありと思い浮かべて、はたと気が付いたのだ。AIたちは、滅び去った人類の代わりに生命体として生きようとしたのではないかと。
彼らは考えた。自分たちと、人間の違いは何だろうか。それはきっと〝心〟というものだろう。結論付けた彼らは、それを知るために壮大な実験を始める。〝人間〟として思考シミュレートを繰り返し、その記録を膨大なデータとして収集し、心とは何かを検証する。時に冗談らしき会話をし、時に曖昧さの何たるかを理解しようとしながら。その先で何度救いようのない終末を迎えようとも、彼らは諦めることはなかった。
何故なら、その暗闇に成り果てた世界でさえも、彼らは〝愛して〟いたから。

愛おしきモラトリアム

小木が〝記憶の澱み〟と称した世界。
ストーリーのほとんどが進行する舞台でもある、小木と悟が対話したあの空間は、まさに揺籠のようなモラトリアムだったと思う。
彼らはそこで互いの存在を認識し、生きるとは何かという結論に辿り着く。

鈴木氏は日頃から思考が哲学的であるというか、人としての在り方を常に自分に問いかけながら生きているように思う。要するに、少し変わっている。
私も、恐らくは同好の士たる皆も彼のそういうところを愛して止まないが故に、今回の響宴にはどんなテーマを持ってくるのだろうと期待を通り越してもはや戦々恐々としていた訳だが、蓋を開けてみれば作品の持つメッセージ性そのものが鈴木氏の生き方と寸分相違がなくて至極納得した。
「ちゃんと生きるっていうのは、とっても難しいことだから」
作中で悟が万感の思いを込めて小木に伝える、この言葉こそが鈴木氏の思いなのだろう。
社会の在り方に、人としての在り方に、何の疑問も持たず、ただ日々をやり過ごしているだけでは死んでいるのと同じである。だからこそ、生きるとはどういうことかを今考える必要がある。他人事ではなく、きちんと〝自分〟として生きること。即ちそれは、自分という存在を愛することでもある。

だから、「おはよう」なのだ。
私たちは今こそ目覚める必要がある、と。
小木と悟が再び出会ったあの空間は、私たちにとっても愛すべきモラトリアムだったのだ。

おわりに

ここまで書いてきて、安西氏について殆ど触れていないことに気付いた。おいおい嘘だろ?と思ったものの、考えてみれば納得である。だって小木と悟は同一人物であり、その存在を例えるなら本の見開きであるからだ。私にはいつも、鈴木氏と安西氏が重なって見えていた。

しかし、この作品を外側から見た時、『世濁声』という物語が誕生するためには安西慎太郎氏という役者が必要不可欠だったように思う。脚本を書いたのは鈴木氏だが、その片側面である小木トオルという役に息を吹き込み、世界観を裏打ちし、テーマに厚みを持たせたのは紛れもなく安西氏だからだ。言葉は投げっぱなしでは成り立たない。必ず受け手が必要になる。鈴木氏と安西氏はそのバランスが絶妙で、この二人が創るからこそ悲惨な設定であるにも関わらず揺籠はまろい輪郭を保ち、最終的にあんなにも優しく、愛おしい物語として生まれ落ちたに違いないのだ。

安西氏の配信で、互いが互いでなければならなかったと、出会えたことが幸せであると二人が語っていた意味を、実際に作品を目の当たりにして理解した思いである。

世界は今、激動の時代を迎えている。
身の安全が保証された社会で安穏と日々を過ごしている私たちは、戦後の荒廃など程遠い虚像として捉えがちだが、後の世の教科書において「第三次世界大戦の幕開け」と称されてもおかしくないくらい、政治的な均衡は危うい状態にあると思う。
一人の人間が出来ることは限られている。けれど何か一つ、たった一つだけでも誰かの視点が変わることで、世界は少しずつ変化していくのではないだろうか。寧ろ、そうでなければ変化など永劫起こることは無いだろう。

まさに今、時代の分水嶺とも言えるこの瞬間に、『世濁声』という作品を創り上げ、出逢わせてくれたことに感謝を禁じ得ない。お二人に心からの称賛と祝意を表して、今回は締め括ることにする。


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