日常と、あの日の温度差

あの日の空は鼠色の雲が覆っていた。今にも雪が降りだしそう。教室の中は暖房がきいている割には足元が寒くて、セーラー服の下で足を組み替えたりしていた。
黒板には古典の先生の文字が並んでいる。よく声の通る先生が何かをしゃべっていた気がする。

突然聞こえてきたのは、クラスの中でかわいらしい女の子の携帯電話の音だった。
緊急地震速報。
けたたましい音のそれは、授業を止めるにはふさわしすぎた。
その直後、揺れた。

先生が机の下に隠れるようにと指示を出す。頭も守ってと。こんな時でもスカートの裾を気にしながら、小さな机の下に身を収めようとした。

私たちは知っているのだ。その揺れが何なのか。けれどその揺れはいつもとは違っていたのだ。
「なんか、長くない?」
「なんか、大きいよね?」
私たちは知っている。その揺れがいつもはどのくらい続いて、どのくらいで収まるのか。
小学生の時も中学生の時も、私たちは似たような揺れを経験しているから、直感的に気づいたのだ。
いつもと、なんか、違う。

揺れが収まっても、机の下に隠れたままでいるようにと先生が言った。それぞれがそのままの体制でカバンから携帯電話を取り出して、メールをみたり、ワンセグをみたり、情報を求める。『大丈夫?』とメールを送って『大丈夫』と返ってくる。ただ事じゃないとわかるころには、授業は中止になっていた。

徒歩通学で帰れる人には帰宅指示。迎えが来れるようなら保護者の迎えを待ちながらクラスごとに学校に残る。通学に1時間程かかってる生徒は帰れる状況でもなく、迎えを呼べる状況でもなく、学校に1泊が決まった。
帰れない生徒は一つの部屋に集まって、備蓄用の乾パンや水と毛布を共有しながら夜を迎えた。
外は雪が舞い始める。寒い夜だった。
夜の間も迎えが来れば親と一緒に帰っていく友人もいた。
長い夜だったと思う。
朝ごはんに近くのお店の人がお稲荷さんを作ってくれていただいた。そしてまた、迎えがくるのを待つ時間だった。
携帯電話はこういう時はただの四角い箱だ。つながりやしない。公衆電話もたいして変わらない。
一人、また一人と名前を呼ばれていく。
「迎えが来てよかったね」
「またね」
「はやく来るといいね」
手を振って見送る。
親が来たことの知らせを聞いた時の嬉しさはどんなに語彙があっても足りない。どれだけ泣くまいと思ったか、でも確か、泣いてしまった気がする。

車での帰宅の道は、いつもと違っていた。
ランプのつかない信号機。傾いた電柱。倒れ掛かった石造。車通りのない道はいつも以上に殺風景な田舎道になっていた。
帰った家の中、壁の棚は向かい合うように倒れたといい、食器棚は開くことを免れたらしい。自室の棚からは本が散乱していたが、もともと綺麗な部屋ではないのでいつもと変わらない。
いつもと違うのは、水道も、電気も止まったこと。
ガスはプロパンだから何とかなったし、ごはんは農家ということと、田舎の近所づきあいが発揮され、食べ物には困らなかった。
夜は仏壇からろうそくを持ってきて、祖母が昔語りをする。若いころの大変だったころを思い出すと繰り返し繰り返し語る。
昼間はつけっぱなしのラジオから外の状況が繰り返し繰り返し聞こえてくる。浜辺に津波で亡くなった数百人の遺体が打ち上げられ……、と繰り返す。
学校は臨時休校。やることもなく、地元の友人たちと集まって、携帯電話の電波が届くらしい場所を探して街中を歩いた。町のはずれの公園で、久しぶりに携帯電話の電源を入れれば、だれが流したのかわからないけれど、雨には放射線が解けてるから浴びないようにとか、なんとかと情報が飛び交っていた。
電気が復旧して、テレビに映るのは町を飲み込んでいく大きな大きな津波。黒々とした煙を上げる工場。事故を起こしたという原子力発電所。
確かに目の前の現実のはずなのに、現実感のない世界がここにあった。

***

あの日は大変だったよね、と誰かが言った。
あの日はうちも実験室の器具とか機械が壊れてさ、と誰かが言った。
あの日の後から電気が止まって、計画停電のせいで困ったよ、と誰かが言った。
でも、いい経験になったよ、と誰かが言った。

***

私は被災者ではない。だって家族も親戚もみんな無事だったし、家は傾いたところもあるけれど、津波に襲われたわけでもなければ崩れたわけでもない。一週間くらい電気や水道が止まった程度だ。
親戚には家が流されたっていう話も聞くし、高校時代の教室で前の席に座っていた女の子は家の前まで津波が襲われたというし、私の友達には津波に襲われて友達が何人もなくなった子もいる。
哀れむわけでも嘆くわけでもなく、私よりも大変な思いをした人がたくさんいる。

だから私が被災者なんて、口が裂けても言えない。

大変だったなんて私は口にできない。

***

私はあの日を忘れないし、忘れられるとは思えない。
いい経験だとも思わないし、仕方なかったなんて思いたくもない。

私は耳から離れない。
ラジオから聞こえてきた、ニュースの言葉が。
被災地を代表して話させられた後の拍手が。

***

風化させないために、忘れなれないために、と取り上げるメディアはいつも3月が近づいてからばかり。
子供たちにインタビューして、心の傷をえぐって、字ずらのいい言葉を話させて。
さら地になった町を映して、頑張ろうという看板を掲げ続けて。
忘れられたくない、風化させたくないとたくさんの人が訴えてる。

私は、忘れられることはないと思う。

けれど、本当の意味であの日を知る人は減る一方だと思う。
それは、風化という意味に重なるかもしれないけれど、違う。

あの日を経験していたとしても、あの日を生きていたとしても、本当の意味で、被災ということの重さを知っている人は減っていると思う。
自分が経験したあの日だけで、あとはテレビの中の出来事として起こったことという事実としてしか知らない。
あの日は自分の身の回りだって大変だったんだよ、っていうばかり。

そうじゃない。

あの日ってそうじゃない。

重さをちゃんとわかって。

知らないことが誰かを傷つけることに気づいて。

あの日、自分以外の人に何があったのか、ちゃんと知って。

***

8年目のあの日が終わる。
一人暮らしの部屋は冷え切っていて、暖かかった紅茶は冷めきった。
やっと書ききった文章と共に、新しい物語への筆をとった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?