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向田邦子というまなざし

『向田邦子 暮らしの愉しみ』(新潮社)という本がお気に入りだ。
向田さんの小説はほぼぜんぶもっているけれど、彼女の小説の稀有なパワーとうつくしさが何で作られたのか、これを読むと二割くらいは、わかる。
彼女というひとを形づくるに欠かせない、旅、猫、食べ物、お洒落、骨董等のことが、日記などを紐解きつつ、バランス良く記されている。

食や物へ独自のこだわりがつよくあったわりに、雑駁というか、潔いというか、大雑把さみたいなものが感じられる写真の数々も、よい。向田さんは本当に沢山の人々にいまなお熱く愛されている美しい女性だけれども、本質の部分では「つかみどころのない」人だった、という雰囲気が感じられるところも、実によい。

向田邦子のことを思うたび、親交のあった黒柳徹子さんに向田さんが言ったという、「人生とは糾える縄の如し」(トットチャンネルでも、使用された台詞)という言葉を思う。あの言葉、黒柳さんのエッセイにも出てきたけれど、彼女が言ったからこそものすごく、凄みがある。才能の塊で仕事中毒でとても人懐っこかったのに、時折ふいに見せる鬼気迫る顔と奇妙に孤独な影のようなものが気になっていたと、黒柳さんは書いていた。人生とは、あざなえる縄のごとし。だからこそ、とわたしなどは思う。彼女が孤独でなければ、明るく生きながら常に密やかな暗闇をじっと見つめていなければ、あれほど珠玉のドラマや小説は書けるわけがない、と。

須賀敦子がユルスナールの靴のなかで「私にぴったりの靴を探」したのとは別に、向田邦子が探し続けた「ぴったりの手袋」。
彼女の大衆的人気の秘訣はおそらく、彼女の関心が靴ではなく、手袋にあったことが大きいだろう。ぴったりの手袋を、探す、ということ。足よりもより心臓に、顔に近い部分に寄り添った、言わば日常感覚の才覚として、そのまなざしを今も生き生きとわたしたちに伝えてくれているのだ。
近しく感じつつも、よくよく探れば決して手の届かない遠い憧れの人、向田邦子はきっとこれからも、沢山の人々を魅了し続けるのだろう。