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25歳の人生日記

第一章 恥ずかしがり屋の幼少期
【保育園編】

私は、平成10年11月24日に生まれた。
元々、私は野菜が好きで幼少期の頃は、母がスーパーで買って来た野菜を手にしては、離さず持っていた。私は、寝る時もゴーヤーやトマト等を離さず持っていた。そのくらい野菜が好きだった。
好きだった野菜を母は、いつもスーパーに行っては買ってくれてた。
旅行に行く際もゴーヤー・トマトだけは離さずに持って行ってた事もあった
空港の検問所の方にも母が理由を説明して何とか飛行機に持って行ったりもした。保育園も合わずに二回変わった事もあった。
色々と保育園の時は、紙芝居を見る際に他の人達とは距離を置いて一番後ろから見てた。
いつも自分が悪口を言われていないか同じ年の子供の親が園の先生達と話をしている時に気になって玄関口まで見に行った事が多々あった。
家の近くの保育園に親は、自分の為にも変えたらしく、よく私は、覚えてはいないけど、母が言うには園の先生がお子さんは、皆と違って出来なかい事が多かったのでしっかりと家でお母さん構ってあげてますか?と言ってたらしい。
私は、母から3年前にその話を初めて聞いた。
その事を母から聞いた私は、よく保育園の頃は、覚えてなかったので特に何も感じなかった。

第二章 人の目で恥ずかしがる自分
【幼稚園編】

私は平成15年に幼稚園に入園した。
幼稚園に入って私は、人の目を見て話せなかった為、所々でちょっかいを出された事もあった。
でも私の事を気にして話掛けてくれる友達もいた。元々、幼稚園のバスの中で私の事が好きだと言ってた女の子が隣に座って一緒に話をしたりました。
だが、私はその頃、女の子には興味は無かった。
だから話をしても長くは続かない。
園での人間関係は、あまり悪くはなかった。
ただ、自分から話しかける事が出来ない。
園の先生達や園長先生、家族も皆が私を心配してた。
その為、園の学芸会があり、私は、恥ずかしがらずに自分でスイミーの役をやりたいと前日に園の先生に言った。そしたら、先生達は優しく自分にいいよとおっしゃって下さった。
そして、その日は翌日の学芸会に向けて私は、先生達の優しいアドバイスの下、頑張って練習をこなす事にした。
そして本番の日を迎えた
やはり、学芸会は人の前という事もあり緊張して自分のスイミーの役は思った通りには出来なかった。
だが、観てた保護者の方々は温かく拍手して下さった。
この頃の記憶は薄っすらとしか覚えてはいない。しかし、私が初めて人の前で恥ずかしながらスイミーの役をしたという事は、今でも覚えてはいる。
幼稚園の記憶として私が一番覚えてる出来事がある。それは遠足の時の事である。
私達の幼稚園は、3クラスに分かれていた。
私は、2クラス目で真ん中の列を歩いていた。
幼稚園から歩いて、10分程した所セメントの蓋が開いてるのに気付かなかった。
私は、そこに足を引っ掛けて落ちてしまう。
セメントの深さがそこまで、深くはなかった為、
生きてはいたが足の皮がほぼ剥けるくらいの大怪我をした。もの凄く痛かった。
だが、私は痛いと言えなかった。
一緒に歩いてた同じクラスの人達、園の先生達は、自分に気付かなかったのか、自分を置いてそのまま歩いて行った。
私は、セメントの蓋の穴の中に足を入れたまま、出る事も出来ずにそのまま取り残された。
あまりの痛さに言葉も出なかった。
自力で出る事も出来ない。
その10分後にセメントの蓋を掃除してたおじさんが来て、私にごめんねの一言だけ。
助けてはくれなかった。
おじさんは、そう言ってから他の掃除をしに行って気がついたら居なくなっていた。
私は、おじさんが居なくなって後も助けてとは周りには言えなかった。
皆の後ろ姿が徐々に見えなくなって来る。
私は、そのまま取り残されてしまうのかと思った。しくしくとずっとセメントの穴に足を突っ込んだまま涙を流した。
私は、出ようと必死に痛めた足を何とか自分の手で持ち上げて脱出する事は出来た。
ただ、そこから皆の列に追い付くのにかなりの時間がいる。
私は、必死で歩く。
足は皮がほぼ剥けた状態で血もたらたらと出始めた。足を引きずって必死に歩いた。
皆の列まであと少し。
その思いで、必死に死ぬ思いで歩いた。
もちろん、先生達も同じクラスの人達は気付かない。自分の存在自体を忘れたのかと思うくらいだった。
何とか私は、後列の他の組の子供が泣いてもたついた為、先生がその子供を説得してるのに時間がかかってた。私は、今だと思い、必死で足を引きずって歩き続けた。
そして列に追い付く事が出来た。
ようやく先生が私に気付いた。
先生は、ゆうといなかったの?と言った。
私は、そもそも先生が私に気付いて無い事に気付いた。
私は同じ組に戻された。
だが、私は何も言わなかった為、怪我をしてる事には気付いてくれなかった。
その後も私は足を引きずって幼稚園まで歩いた。
足の手当ては、幼稚園ではしなかった。気が付いたら血は、止まってた。だが、足の皮はほぼ捲れてる状態であった。
夕方、家に帰ってからお母さんに私が怪我をしたと言った為、手当てをしてくれた。
私の幼稚園の思い出の中で1番記憶に残る出来事だった。
以上、幼稚園編
続く

















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