【本郷義志伝】第一章:父の討ち死にと玉川家の滅亡
※これからは、第一章の本文タイトルとタイトル文を分けて書いていきたいと思います。
第一章:父の戦死と玉川家の廃絶
母上は、私と家臣達を玉川屋敷の大広間に集めて事の次第を報告した。
もちろん、納得する者はいない。家臣達の中には、私が幼少である事を理由に玉川家として決断を母上に一任すべきとする者、赤松家による玉川家の領地接収も止む無しとする者、さらには、私は、母上に、戦は嫌であると申し上げ、家臣達を諫めるように言った。
母上は、皆に、申された。
「今、赤松と戦うとなれば、赤松一族が守護としての権威を盾に結集して、我が玉川家を滅ぼしに来るやもしれぬ」
家臣達の中には、未だ抗戦派がいたものの、最後は赤松嫡流家に玉川家の全所領を渡して家臣や領民の命を守るのも一つの策ではないかとの事で話はまとまった。玉川家の所領を赤松嫡流家に託する事に同意する文を置塩に送る事になったが、その文には、家臣から出た、玉川家を播磨国守護の下での役職の話を書かれていなかった。母上も家臣達もこれには大変ご立腹のご様子であった。子供ながら、私達もこの返答の内容に違和感を持った。
母上は、播磨国守護の下での役職の件を問う文を置塩に送った。
しばらくして、玉川庄の領地の接収の為、役人を三十人程送るとの返答があった。これを受けて、母上は家臣達を集めた。家臣達の意見は割れ、文を置塩に送って抗議した所で何も変わらないとする者がいる一方で、玉川家が守護の下での役職に就くという条件は、玉川家として、領地を赤松嫡流家に託する上での最大限の譲歩であり、譲れないと怒る者も多くいた。
母上は家臣達の意見を尊重しつつも、ここで赤松と戦っても勝ち目はないとして、領地の接収にやって来る赤松の役人への対応の話に切り替えた。
ただ、家臣達は納得しなかった。
「数日のうちに赤松の役人への対応を決めねばならぬ」
「戦だけはしてはならぬ」
母上は、語気を強めて言った。それが功を奏してか、家臣達の中に、奥方様の言う通り、戦となれば、皆、討ち死にする事になり、抗議の為の戦にはならない、との意見が出始めた。
母上は、続けて言った。
「赤松家による玉川庄の接収が終わり次第、私と子供達は、私の実家の本郷家に身を寄せる。皆は、赤松家の者として、しっかり働くが良い」
家臣達の中には、それでも納得しない者が居たが、最後は、そこまで奥方様が仰るのであればと、皆が同意した。
「玉川家は無くなるやもしれぬが、皆も達者での」
母上は家臣達に別れを告げた。
一五七四年(天正二年)六月、赤松家の役人が玉川庄の接収にやって来た。
その際、屋敷に残っていた家臣、侍女達は全員、赤松家に仕える事が知らされ、玉川庄に残る事も許された。また、玉川屋敷は修復の上、赤松家の代官所として存続する事になった。
一方、母上、私、弟の三人は、十四人の従者と共に、玉川庄を出て、播磨国の北端ある、母上の実家の本郷家に陸路、徒歩で向かう事になった。
以上、第一章、父の討ち死にと玉川家の滅亡編でした。
次へ続く
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