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25歳の人生日記

{問題ばかりの中学1年生}
中学1年生編と中学2年生、3年生編に2つに分けて投稿いたします。

私は、平成23年4月7日に中学の入学式を迎えた。
入学式終わりの、初めてのクラスで中学で初めて会う人達が多く居た。
自己紹介の際は、緊張した事をよく覚えている。
同じクラスになった人達とは、そこそこ話は合ってはいた。
私も小学校の頃よりは人と話す機会は増えていた。
小学校の友達と日頃、遊ぶようになった。
友達二人と外で遊び楽しい事もたくさんあった。
その中で、5月には部活もやってみたさで野球部にも入部した。
その事で、小学校の頃からやってたスイエー教室は、辞める事となった。
野球部は、朝練が6時から開始だった。
私は、寝坊して朝練は、行った事は無い。
だが、授業終わりの練習は、ちゃんと行った。
野球部の先生からは、しっかりと朝練来るように言われたりもした。
だが、元々寝坊体質であった私は、朝練は行けなかった。
夕方の練習だけは、行ったが打ち込み等の練習が中々、きつかった。
そして、走り込みも人よりも遅れてた事で倍でさせられた事があった。
でも何とかこなす事は、出来た。
5月下旬のある日、野球部の集まりがあった。
監督を前にして皆、集まって話を聞いてた。
必ず監督の前では、脱帽しないといけない。
野球部は、中々規則が厳しかった。
その為、私は辞めようかなとも思った。
そして、ある日、監督から髪を切って来なさいと言われた。
私は、今の髪が良いと言った為、ダメだと言われた。
野球部であるから当たり前だった。
監督からも1か月は、多めに見たと言っていた。
その為にも私は、髪を切らざる得なかった。
そして、6月になる前の日に私は、家の近くの床屋で髪を切って来た。
監督は、三部刈りをする事でチームに残る事を認めてくれた。
そして、6月3日の中体連にもバスに乗り先輩方と同行した。
そして、客席で同じ一年生と応援をした。
初めての中体連同行は、私も良い経験となった。
初めて、5回終わりに審判に水持ちをした事がある。
そして、6回に入ると再び、客席に戻って応援した。
私達の中学チームは、この試合で3対0で負けた。
私も初めての応援は、良い経験ともなったが、それよりも暑かった事が思い出として残っている。
この試合の一週間後、私は野球部を辞める事となった。
理由は、1か月の朝練を全休した事を監督やチームメイトから言われた事もある。野球部では、友達も出来ていつも練習帰りに家に帰った仲であった。
その友達も私が辞めると聞いて、少し驚いてはいた。
私は、野球部を辞める事を母と監督に伝えに行った。
監督は、私にしっかりと練習に来ないといけないぞと言われた。
そして、母が監督に少し練習が厳しすぎるのではと言った。
監督は、これは、仕方無い事ですと母に言った。
野球部の練習は1か月に1回しか休みは無かった。
監督は、私にいつでも待ってるぞとも言って下さった。
私は、ありがとうございますと監督に言って辞めた。
私は、5月には近くの塾にも入った。
この塾には、野球部の先輩達も多く居た。
野球部の先輩達は、私をよく可愛がって下さった。
私は、よく中学から帰って寝てから塾にも行った為、遅れた事もよくあった。塾長も、塾の先生方も、私に良く勉強を教えて下さりお世話になった。
優しくしてもらいもした。
学校では、私の反抗期という事もあり度々、ペンの貸し借りでよく友達5名と殴り合いの喧嘩もした。
放課後には、外で友達五名と殴り合いの喧嘩もした。
しばしば、私は、先生から呼び出しをされた。
そして、保護者も呼ばれ、度々、保護者会が開かれた。
ちょうど、その頃、塾も次第に遅刻すようなった。
その為、きっぱり母にも事情を言って辞める事となった。
中学1年生の頃は、反抗期で素行も悪かった為、度々、先生から一言注意された事もあった。
母も父も家での、私の態度をとても心配してた。
私は、親の心配をよそに素行を直す事はしなかった。
中学1年生の冬も再び、友達と殴り合いの喧嘩をした。
友達の挑発もあり、私のペンを友達が取った為、私がお金を払ったら返してと言った事でお金を払わなかった事で殴り合いの喧嘩となった。
その時も、近隣の人達が私達を見ていて再び保護者会となる。
この連続で学校では、あまり勉強には身が入らずテストの際も点数は人よりもずっと低かった。保護者面談の際も、先生は私の母に6歳児と同じ知能ですよと言われた事があった。
私は、母が、帰りに怒ってた事をよく覚えている。
こうして、中学1年生は、終わった。
続く




















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