月に曼珠沙華

 そして今、わたしはあなたの前にいる。

 わたしはあなたほど切実ではなかった。
 あなたは息をするためにうたう。だからあなたは、たとえ世界でひとりぼっちになったとしてもうたえる。心臓が血を送り出すように。

 けれど、わたしは。

 冴え冴えとした月あかりが降りそそぎ、下生えをうっすらと染め上げている。その草の間を縫うように張った根の先には、大樹がひっそりとたたずんでいた。
 夏の盛りには青々とした葉を惜しみなく茂らせていたその桜の樹は、すでに秋の訪れを告げている。一枚、二枚、紛れるように瑞々しさを搾られた葉は、どの季節よりも濃く、強い火の色を宿していた。

 その、火の色よりも、あざやかな。
 深紅の花が、風に揺れていた。

 わたしはうたうためだけの生きものとして産まれなかった。そこまで切実ではなかった。
 でもあなたはうたうためだけの生きもので、だからあなたはいつまでもどこまでいってもうたひめだった。

 けれど、わたしは。

「むいてない」
 月のように静かな声が、冷たくひびく。

 むいてない。

 そんなこと、あなたに言われなくても、知っている。
「いけないですか」
 むいてなかったら、してはいけない、そういう、ものですか。
「いけないですか」
 うわごとのようにくりかえす。

 わたしは、あなたとはちがう。うたわなくても息ができる。けれども。それでも。

 うたって、だれかにきいてほしい。みてほしい。そしてなんでもいい、ききたい。きいただれかの、声を。記号でかまわない。だから、だれか、なにか、こたえて。

 だれかを欲しがるわたしは、こたえがいらないあなたとはちがう。

 空に懸かる満月は白銀色。うすぎぬのような雲を朱鷺色ににじませ、黄金色のかがやきをのばす。

 やわらかで、しかし凍てついた光が、燃える花をゆらめかせている。

「つながりを、求めては、いけないですか」
 届けたいひとをさがしては、いけないですか。

「むいてない、ね。それは」

 うたうのに。息をするのに。むいてない。知っている。それでも、わたしは。

 あなたを見る。
 まぶしくて、それなのに手をかざすことさえできない、光のあなたを。

 あなたは月。
 気高く美しい。
 だからだれもふれることができない。
 そば近くにとどめることもできない。

 あなたはあのまっくらな宇宙にひとりきりでも、あなたのうたを口ずさんで、息をすることができるのだから。



2021/9/28 「月が綺麗だから創作したよ」企画参加作品

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