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ゆとり、ゆとり会を開催するってよ。


「ゆとりさまは、ゆとり会を開きましょう」


教室の最後、あきやさんはニコニコで言った。
意味がわからず、私はかたまった。

え、需要なくない?
てか話せることなにもない
というか、ゆとり会ってなにーーー?!

私は抵抗を試みて、言い訳のようなことをだらだら喋っていた。いつもなんでも肯定的な意見を伝えてくれるあきやさんとは少しちがったように思う。このままだとずっと堂々巡りになっちゃうから、打破するためにはゆとり会を開かなくてはならない、というようなことを意思をもって伝えてくれたように感じた。

わかっている。私は行動派なように見えて、めちゃくちゃ臆病な人間である。軽率にやりたーい!と飛び込んでいけることと、やらない言い訳を何重にも重ねて逃げることと、両極端である。とくに自分が主となってなにか企画して発信していくことにはとても抵抗がある。心の底に、私なんか需要ないもんね・・・という気持ちがあるんだと思う。

ゆとり会を開くというのは、その最たるものだ。だから、ものすごく抵抗をした。「すごく嫌ならばやらなくてぜんぜんいいですからね」と言ってくれるあきやさん。「だけど、ゆとり会に行きたいと言ってくれる人はたくさんいると思いますよ」とも言ってくれるあきやさん。一緒に教室を受けたみなさまが「え、行きたいよー!」と言ってくれたのも、心の底では「お世辞にちがいない。リップサービスだ」と思ってしまう私がいた。

なにもお返事はせず、帰路に着く。睡眠時間を何よりも大切にしている私は、急いでごはんを食べ、急いでお風呂に入り、いつもの就寝時刻にはベッドにいた。目をつむる。そこから眠りにつくまでいつもなら1分とかからない私だけど、まーったく眠れない。教室の内容を振り返り、ゆとり会が頭の中を駆け巡る・・・。話せるネタなんかなにもない、と言う私に、あきやさんは「旅行のことを話せばいい」と言っていたなあ、とぼんやり思い出す。眠れない頭がフル回転をして、こんなことなら話せるかも?こんな内容にしたいな!と、アイデアが頭の中を駆け巡ってしまった。うわあ、話せるじゃん、と思ってしまったのです。

そこから、こんな場所でやりたい!こんな服装がいい!と妄想が進む。あれほど秋冬服のイメージができなかったはずなのに、コーディネートの案がどんどん浮かんでしまう。(あきやさんが時期は11月がいいと思う、と指定していた)そして、気づいてしまった。このリアルな妄想こそが、ファッションにつながるのだと。だから、11月なんだと。
今までの私が考えていたコーディネートと、私が主役のハレの日のコーディネートは少しちがう。一緒に教室を受けた十月さんが「ハレの日があると、そこに向けて集中する。ファッションも美容もその日に向けてがんばれる」というようなことを言っていて、とても納得した。
たぶん、私らしいコーディネートが思い浮かんだ時点でゆとり会を開く目的は達成されている。だから、本当は開かなくてもいい。だけど、ここまでしてもらったのに、おいしい部分だけつまみ食いみたいなマネは私の美学に反する。

深夜に教室のnoteを書き上げた時点でだいぶ気持ちは固まっていたんだけど、これが誰にどういう需要があるのか、ということがまったくわからなかった。月曜日、仕事をしていても頭の中では考えてた。誰か不特定多数の人に向けて話す、というのは形式で言うと講演会を想像してしまう。だけど、講演会ってテーマがあって、有益な情報を知りたくて来るものだから、そんな有益な情報を話せないから違うように感じる。私はなんでもすぐに検索するので”講演会”を検索していた。そうすると、「講演会とトークショーの違いはなんですか?」というのが目に入った。講演会よりはトークショーのほうが近いな、と思ったけれど、トークショーは芸能人などその人自身の存在に価値がある人が行なうものだと思う。私はただの一般人だし、存在に価値なんかないもんな~なんて思っていると、小声トークを思い出した。

小声トークとは、お笑い芸人オードリーの春日さんと若林さんが春日さんの自宅「むつみ荘」で行なっていたトークライブである。

売れる前のふたり(主に若林さん)は、誰かのために小声トークを開いていたわけではないと思う。自分たちの練習の場として、自分たちが売れるために、小声トークを開いていたと思う。そのことに気づいたとき、私も私のために機会をつくってあげていいんだなあ、と自分を認めることができた。10席限定、10人以上の応募があったら抽選になりますよ!とアナウンスしても、埋まらなかった席。今になればすべて笑い話になっている。オードリーと小声トークの存在は、私の背中を押すのにじゅうぶんだった。

私は私のためにゆとり会を開催しよう。
人が来るかどうかは、また別の話だ。

開催をすることを決めても、私には引っかかっていたポイントが大きく2つあった。

1つめは、この会を開いて来てくれる人に何をあげることができるんだろう?ということだった。私のために開くと決めても、時間をつくって来てくれる人がいる以上、やはり何か得るものがあったほうがいい、と思っていた。それがなんなのか、まったく想像ができなかった。毎日ぼんやり考えながら、自分の書いた文章を読んで気づいたことがあった。私が、楽しい!わくわくした!という行動の記録を文章にして、その文章を読んで楽しそう!やってみたい!というレスポンスをいただけることに、幸せを感じているということだった。バンジージャンプのnoteが現時点では理想形かな。ただ、書いた時点では「ねー聞いてー私こんなことしたんだよー」というリラックスした気持ちで書いていて、リアクションの期待はしていない。私はこれまでずーっとなにか価値あるものを人に提供しないといけない(極端なことをいえば、そうしなくては生きている意味がないくらい)と思ってて、だけどそういう価値あるものを提供するってなんか上からで偉そうで押しつけがましいなあとも思っていた。しかも、なんか堅そうな感じ。考えていてもちっとも楽しくなかった。私は、そういうものに心底わくわくしないんだ、ということを知った。私があげられるものって楽しい!とかわくわく!とかそういう気持ちなんだと思う。偉そうなものとか堅そうなものとか似合わないよね。笑
そんなことを考えていたら、昔によく聞いていた歌の歌詞がふっと降りてきた。

死ぬまでドキドキしたいわ
死ぬまでワクワクしたいわ

JOY / YUKI

YUKIちゃんのJOYです。私、本当に死ぬまでドキドキワクワクして生きていきたい。何かにとらわれたくないし、どこかに縛り付けられたくもない。最期まで、動くことを大切にしていたい。これは私のありたい姿だなあ、と思った。

2つめは、今回はトークショー?という形式をとるけれど、じゃあ私のコンセプトってなんなの?ということである。何回も開きたい、とか、話すことを生業にしたい、とかは思わない。ちなみに教室では私のコンセプトは哲学者だった。(自分の考えをべらべら喋ってられたらいいな、という願望がある。笑)だけど教室の最中にすでに哲学者ではないかも・・・と思っていた。なぜなら、私の尊敬している人に挙げた人たちは哲学を持って生きているけれど、哲学者ではない。だいたい「哲学者です!」と名乗って、哲学を探すのはなんか胡散臭い。日々の生活から、哲学を見つけたいだけなのだ。じゃあ、私のコンセプトはなんだろう?また堂々巡りだった。第3回の幻冬舎大学でアウトプットの方法の3つ目は人それぞれだけど必ずある、という話を聞いてから、第3のアウトプットをやってみる(体験する)にしている。ただ、やってみる(終わり)だと、記憶に残らないのと、やって感じたことや見つけたこと(哲学)がないので、今はだいたいnoteに書いている。ほかにも話すことや写真を撮ること、その時々の気分や最適解で記録を残せたらいいなと思っていた。だけど、結局これって職業にするとなんなの?という話に戻ってくる。そんなときにNetflixでLIGHT HOUSEが公開された。

星野さんが売れる前に「歌」と「芝居」の2足の草鞋で活動していることを「そんなんじゃ絶対成功できないから1つに絞った方がいい」といろんな人に言われた、だけど、どちらも中学生からしてきているしなんで絞らなきゃいけないんだ?と思ったと話していた。若林さんもお笑いじゃない仕事にいろんな思いがあるんだろうな、とラジオを通して感じていたので、星野さんや若林さんのように1つに絞らないほうがいいひとだっているよな!とおこがましくも自分を同族として肯定してみることにした。(ちなみにオープニングで、肩書がそれぞれ何個も出るのは最高にかっこいい)

そんなわけで、私はコンセプトの職業をひとつに決めないことにした。自分のドキドキワクワクするやってみたいと思ったことをやって、感じたことや考えたことをなんらかの形で発信する。めっちゃアバウト!!!だけど、私は知っている。ひとつを極めるのは私の役目ではない。私は絶対に飽きてしまう。だから、いくつも手段を残しておきたい。あきやさんの顔を想像すると、少し困ってそうな気もするけど、教室で「好きな色は何色ですか?」に「カラフルです!」と答えた私だからたぶん受け入れてもらえるだろう。

ただ、一つだけ気を付けたいことがある。表現の方法として、つくる時間が長ければ長いほど、体験したときの鮮度が減ってクオリティが下がるような気がする。単純に私がクリエイティブではないことが理由なんだけど、そういうものには憧れても、あんまり取り入れないほうがいい気がする。それか、取り入れるときはクオリティの高いものを提供するまでに時間がかかってそれを訓練として受け入れることが必要なのだと思う。

そして、職業をひとつに決めないことで気づいたことがある。手段の目的化大好き人間の私にとって、コンセプトの職業は、めちゃくちゃ手段の目的化になりやすい。コンセプトの職業の行動をすることに囚われてしまって、なぜその行動をするのか?という大局が見えづらくなってしまうことに気づいた。(もちろん、職業が主体性を生む、という自問自答的考えが大好きなのが前提です!)

でも、一言で表したい、と思ったときに、これまた昔によく聞いていた歌のことを思い出した。歌詞ではなく、タイトルなんだけど、aikoの歌に、be master of lifeという曲がある。be master of lifeを訳すと「人生の達人になる」である。私のなりたいは、人生の達人だと思う。自問自答ファッションを知る前から、私は何度もこの着地をしている。だけど、そのときと違うのは、人生の達人の解像度があがっていることだと思う。楽しい!やってみたい!と思ったことをやってみることで、私は私の人生の達人になりたいな、と思った。

そしてもう一つ夏休みに読んでいた本からもなりたいがあったので、引用しておく。

君が、どんどん変化していくのを見ていると、人間っていうものは本当に、いれものなんだ、と思うんだ。いれものなだけで、中身はどうにでもなるって。別人にもなれるんだって。道を歩いている誰かと、基本的には何も変わりないんだ。運命の成り行きで、君はつぎつぎ新しいものを中に入れていくけど、その変化するいれものにすぎない君という人間の底の底のほうに、なんだか『朔美』っていう感じのものがあって、たぶんそれが魂っていうものだと思うんだけど、それだけがなぜか変わらなくて、いつもそこにあって、すべてを受け入れたり、楽しもうとしている。

アムリタ(下) / よしもとばなな

私も、私といういれものでありたいなあと思うのです。どんないれものなんでしょう。お皿なの?コップなの?透明なの?不透明なの?妄想はまったく出来ていないけれど、私も私といういれものでありたい。つぎつぎにいろんなものをいれて、変化していきたい。そんなふうに今は考えている。

このふたつの引っかかりを取り除くことができて、ようやくnoteを書く気になった。長い長い道のりだった。だけど、この結論を出せて、なんだか今までと違う自分になった。価値を提供しつづけないと考えていた焦りや辛さから解放されて、すごく等身大でいられるようになり、毎日リラックスできているように感じる。

実は、今日は1年前に初めて心のうちを書いたnoteを公開した日だ。そこで私は「いつかは世界と両想いになりたい」ということを切々と書いていた。1年前は、私は世界を好きなのに、素晴らしいことを成し遂げて世界から好かれないと両想いになれないと思っていた。だけど、本当はちがった。世界はいつも私を好きでいてくれて、私のほうにこそ世界を好きになる覚悟が必要だった。それは、私の世界では私が主役を張るという覚悟なんだと思う。その覚悟はまだ確固たるものではないけれど、ゆとり会はひとつのポイントになってほしい、と思っている。

\ 🦄ゆとり会開催のお知らせ🦄 /

日時:12月9日(土) たぶん午後
場所:東京の東側(山手線沿線などアクセスのよいところにします)
内容:旅行的なことを(ざっくり!)
料金:お茶お菓子代として少しだけ(500円以下です)
来たい🙋‍♀️と思ってくださる方、SNSからDMください🥺💌

定員は10名で、10名超えたら抽選にします!と小声トーク見習って、調子に乗って言ってみます。笑 実際は来ていただける方がそんなにたくさんいらっしゃる奇跡のような出来事が起きるのであれば、それに合わせて場所の大きさを変えたいと思っています。

宣言だけでとても緊張しているけど、自分の人生の主役を張ると決めたから仕方ない。やったことないこと軽率にやりたいとか自分で言ったんだから、軽率にやっていきたいと思います🥳✌お時間ある方、ぜひ来てください💖楽しんでもらえるように死ぬ気でがんばります!

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