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直感に従え!

先日、イコさんとお会いして

どうやって勉強していたか?

という話になった。イコさんは、勉強の仕方と認知が似ているのでは?という仮説を持っていて聞いてみた、と言っていた。

私は、教科書や参考書を読む前に問題集をがしがし解いて、丸付けをしながら解説から理解していく派。それから、まとめノートをつくれるときはつくり、最後(試験前数日)はそのまとめノートや教科書を読む。

これは学生時代にもなんとなくやっていたけど、このスタイルでないと勉強ができないんだと自覚したのは、社会人になってから資格試験を受けたときだった。
試験を受けることを決めて、まずは参考書を買って読んで勉強しようとしたんだけど、とにかく字がすべる。なにも頭に入ってこない。どうすればいいかわからないけど、とりあえず過去問を解きはじめたら、めちゃくちゃ理解できるようになった。
このときに、自分の勉強方法を自覚したと同時に、学生時代もこうやって勉強してたな?ということに気がついて、とても印象に強く残っていた。

私は、答えを知ることに楽しさがあるタイプだと思う。問題を解くのが楽しいわけではなくて、答えを知るときに、知らなかったことを知り、自分の理解度もわかる。

まとめノートを素敵にまとめることに憧れはあるけれど、実際にはあまりつくったことはないし、つくっても素敵ではない。笑
そのふたつが好きなこと!とイコさんの前で言っていたのに、その日の帰り道には、まとめノートはダウトの好きだろうなと気づいていた。

あまりにもこの話がおもしろかったので、ずっとこのことばかり考えていた。ちょうど『初めて恋をした日に読む話』を読んでいて勉強について思い出すことや考えることも多かったので、noteを書き出したらなんか見つかるかも〜と思い、書き始めている。(本日移動多め)

書いていて気づいたけれど、これは勉強に限った話ではない。なんていうか、私のすべての行動がこの流れに則っている。則っているというか、この流れで行動できると調子がいい。
行動する(問題を解く)→経験が貯まる(丸付けをする)→概念について理解する(教科書がわかるようになる)みたいな感じ。とりあえず、私は闇雲にハウツー本を読むのをやめようと思った。はじめに教科書を読んで字がすべっている状態と同じだ。(本やマンガ、映像作品は行動の擬似体験みたいなイメージ)

では、まとめノートをつくりたい気持ちはどういうことなのだろう?まとめノートへの思いを書き出してみた。

・きれいなまとめノートに憧れる
・だけど作れた試しはない
・うまく作れないとストレスになる
・だけど問題を解いただけの残骸は成果物にならない
・だから頭には残っていても自信が持てない
(試験などで成績が残せないわけではない)

私は人生において、まとめノートをつくることから最近逃げている。それは、せっかくのいい思い出がまとめノートを作れないことによって嫌な思い出に塗り替えられてしまうからだ。だけど、何度も堂々巡りをしてしまうのは、まとめノートがないこと=なにもしていない(本当はちがうのに)になっていて、自分に自信が持てないからなんじゃないかな。記録があれば自信が持てるのであれば、きれいなまとめノートじゃなくてもいいんじゃないかな。そんなふうに思う。最近何度も記録が必要な気がする、と直感的に思っていたことがようやく腑に落ちた。
自分のやったことの証として記録を残す。記録が残っていれば、気が向いたときにまとめることもできる。

そして、私のつくるまとめノートは人に見せたり人の役に立つことをまったく考えていない。私は人の役に立つことに重きを置いてきた人間だと思っていたのだけど、この日のほかのことも含めたいろんな話から私はまったく人の役に立ちたいと思ってないことを知った。それは私にとっては衝撃だったし、人の役に立ちたいと思って行動するんじゃそれはうまくいかないわ、と客観的に思った。恐ろしいほどに自己中心的で自分にしか興味がないと思う。でもそれって世間的には好意的に捉えてもらえないから、なかなか開き直れなくてうじうじしたり、言い訳を並べて取り繕ったりしていたんだろうなあ…。
だけど、私が私のために行動していても、誰かのなにかになっていることに気づきはじめている。なんなら人のために行動するときより、大きな作用があるような気もしている。(苦手なことと得意なことの差だと思う)

私が自問自答を始めて気づいたことのひとつひとつが線になる感覚があった。私を体系的に理解できた、そんな感じ。

この話をしながら、私はもうひとつ強烈な体験をした。

私の勉強においてのスタイルと好みは今書いたとおりだけど、ではイコさんのスタイルと好みは?というと、私にこんなに夢中になれる楽しい質問をしてくれたのだから、答えは決まっている。

問いを考えるのが好きなひと だ。

私はこの自分の考えをイコさんにはっきりと断定的に伝えた。今こうやって文章にしていると多少論理的にもわかってきたけど、そのときは根拠もない直感的な意見で、そういうことを人に伝えるのはとてもめずらしいことだった。

言ったときに、私が泣きそうになった。

それは、あきやさんがゆとり会を開きましょうと言ってくれたときのような、雫石が真一郎くんがこのあと高橋くんのお母さんと一緒になる未来が見えたから別れるのを決めたときのような(伝わらない王国例えを毎度ごめんなさい)本人はわかってなくても、否定してきても、まちがいない真実なのだ。

もちろん予言者のようになんのことでもわかるわけではないし、いつも伝えることが正しいわけではない。だけど、直感的な意見を持てたこと、それを根拠もなく伝えられる自分と相手との関係性だったこと、それがうれしかった。

昔はもっとそういう自分だった気がする。だけど、大人になるとそういう根拠のない意見は言っちゃいけない気がしていて、言わないことでどんどん鈍い自分になっていた。

私は、私のことにおいては、もっと直感に従って行動しようと思う。自分のことはなにに従って行動しても人に迷惑はかけないし、ごたごた並べた屁理屈で行動するより、自分の直感を信じて行動したほうが、失敗しても納得できると思う。行動してから、根拠を探そう。行動する前に探すと、迷宮入りする。そして、私の直感はけっこう冴えてると思う。

アーティストに強烈な憧れ(執着)を持っていたのは、直感的であることを許されてる人だったからなんだと思う。私はそういう人が持っている表現方法はひとつも持っていないし、たぶん興味もない。ただ、自由に生きられる(ように見えていること、実際はそうではないことももう知っている)ことが羨ましかっただけだと思う。
だけど、別に私がそうやって生きてもいいんだね。なんだかようやくめちゃくちゃ納得した。

そんなわけで、私はいまファッションもアートだと思っているようである。なので、軽率に私のファッションを解釈してほしい。




超どうでもいいおまけの話。
大学生のころバイト先の人と付き合っていた。お付き合いは順風満帆だった。そんなときにバイト先に新しい女の人が入ってきた。その人に挨拶した瞬間、彼氏は私と別れてこの人と付き合うだろう、と直感した。その後、本当に私はお別れし(就活によるメンタル崩壊による自爆)その人とお付き合いを始めた。このときの直感は未だに言い表せないんだけど、私が一番直感を感じたエピソードです。笑

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