ファンでない人を「読者」と呼ぶ違和感

「読者」という表現に対する個人的な感覚の話を書く。


一回限りの読者と定常的な読者がいる

この文章のように個人が勝手に書いて公開しているブログに対して、「筆者」や「読者」のような仰々しい表現を使うことに違和感がある。「書いた人」や「読んだ人」のほうが温度感は妥当な気がする。

検索エンジンやSNSで共有されたリンクを通じて文章にアクセスした人は、その書き手の文章を一回しか読まない可能性が高い。その書き手やトピックに特別な関心を持っているわけではない。もちろん、こういった人も、一般的には読者と呼ばれることは知っている。

一方で、特定のブログを定期的に訪問したり、特定の著者の作品を積極的に求めるような人もいる。そのような人は、フォロワーやファンとも呼ばれる。このような定常的な読み手のことを読者と呼ぶのは、個人的にしっくり来る。

一回限りの読者と、フォロワーやファンのような定常的な読者は、その書き手やトピックに特別な関心を持っているか、という点に大きな違いがある。一回限りの読者は書き手の名前は知らないが、ファンならば当然知っている。ファンは、自分から積極的に情報にアクセスする。

読者は集団的でコミュニティを連想させる

書き手は、自分のファンの名前を意識していないことが多い。SNSではフォロワーの名前が見えるが、「あ、田中さんがフォローしてくれてる」と個別に認識できているうちは、田中さんをフォロワーと呼ぶのは違和感がある。個人では把握できないくらいコミュニティが大きくなったときにはじめて、読者やフォロワーという表現が適切と思えてくる。

読者という表現を使われると、単に「その記事や作品を読んだ人の集合」という以上のコンテンツとの関わりを連想させられる。たまたま同じページを見た人ではなく、共通の趣味や目的を持ち、イベントにも参加する一種のコミュニティのようなイメージである。

だから、読んだ人の数がコミュニティと呼べるほど大人数でなかったり、顔見知りであったり、広告がきっかけでたまたま記事を読んだ人だったりすると、「読者」というより「読んだ人」のように思えてくる。

「読み手」は読む行為や読解に関心を持つ人

「読み手」は英語でReaderで、読む行為そのものに焦点を当てている。「読む行為や読解に関心を持つ」という説明もあった。対して、「読者」はAudienceであり、単なる「読む人」ではなく、なんらかの共通の興味や目的を持つ集団的な受け手を連想させる。

「読む人」だと語感が悪いので、「読み手」という表現のほうが使いやすいような気もするが、「読み手」だと読む行為の専門家と誤解される恐れがある。「難解な文章も解読できる人」のようなイメージが伴う。

そうなると、「読み手」という表現も、「読者」とは違う理由でブログを読む人には適切ではない気がしてくる。

まとめ

「読者」という表現は集団的な受け手を、「読み手」は読む行為や読解に価値を見出している人を連想させる。そう考えると、検索でヒットした文章やSNSで流れてきたリンクをクリックして現れた文章を読む人は、「読者」でも「読み手」でもない気がしてくる。「読んだ人」という表現が一番しっくりくる。

この文章を書こうと思ったきっかけは、ブログを書き始めたばかりの人が「読者」という表現を使うことに違和感を覚えたからである。辞書的には文章を読むすべての人が読者なので、もちろん間違いではない。それなのに、なぜ違和感があるのだろう、と考えてみた。

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