挫折と成長。
初めての移籍。
ドキドキしながらロッカーに行ったのを覚えてる。
なぜなら…
あの人のロッカーがあったから。
そう…
「キングカズ」 こと「三浦知良」 のロッカー。
カズさんが京都サンガに来た頃、ちょうど中学生。
まさにスーパースター。
地元の銭湯によく来る!という話も耳にした。
まず真っ先に、カズさんのロッカー見て興奮したのを覚えてる。
そんなドキドキした感情とは裏腹に
この移籍が難しいのは
ある程度わかってはいるつもりだったが、現実は予想を遥かに上回っていた。
まず、最初の事件が起きる。
調子も悪くなかったキャンプ。
最終日に、練習試合で接触により、右膝の内側の靭帯を痛めてしまう。
松葉杖でキャンプを終えた。
「え?なぜ?今?」
とやり場のない感情をどうしたらいいかわからなかった。
岸野監督は、自分と渡邉将基には一際厳しかった。
この怪我の映像もミーティングで流されるほどだった。
それでも、怪我した自分が悪いから仕方ない。
かたや、Jリーグは開幕し、チームは3連勝。
絶好調な滑り出し。
その頃にようやく復帰した。
今まで全くそういう怪我と無縁で生きてきたから、やはり色々とバランスは崩れていた。
痛みと怖さ
これも全然残っている状態で、試合に出ていた。
けど、自分のポジションを奪われたくない一心で我慢に我慢を重ねて、負の連鎖。
しまいには、右膝に痛みがくる。
天皇杯で川崎フロンターレと試合した時は、
すでにある程度、限界がきていた。
気持ちだけでピッチに立っていた。
そして次のリーグ戦を最後に長い期間ピッチから離れる事に。
翌年、1年間で2度のオペ。
簡単に書けないくらい辛かった。
挫折と言えるようなものではなかった。
絶望という言葉が、当てはまるようなものだった。
1度目に関しては、凄くポジティブな感情しかなかった。
JISSと呼ばれる施設でのリハビリ。
世界で戦う人たちとの出逢い。
自身を凄く人間的に成長させてくれた出逢いだ。
凄く前向きになれた。
「おれは絶対戻る。」
と、しかし、現実はそんなにあまいものではなかった。
もう2度とオペはしたくないと思っていた自分。
またする事になっても引退してからかなと思っていた自分。
まさか8ヶ月後にオペが来るなんて夢にも思ってなかった自分。
この時、湧き出た感情は
「もういいや。」
「もうサッカーやめよう。」
だった。
日常生活にも支障が出ていたから、自分はオペを希望した。
契約の事もあるから、オペするのはという意見もあったが、自分の中では答えは出ていた。
「もう満了だったらやめる。」
「トライアウトも受けずにサッカーはやめよう。」
という答え。
10月にオペをし、シーズンオフに。
なんとか首の皮一枚繋がった。
前回の最後に書いた、自分の根源。
2010年の終わりにあった面談で、その根源が根底から覆す出来事が起きた。
結局、チームの為にプレーしても、個人の成績がつかなければ何も評価されないんだと。
自分の根源が崩れた。
これが
「結果が全て。」
にこだわりだしたきっかけだ。
生き残る為には、結果。結局、結果が全て。
チームの為にプレーしてるだけでは、何も評価されないんだと。
"見ていろよ"
と意気込んだ2011シーズンだったからこそ。
辛かった。
ピッチにも立てず、2度のオペ。
チームの調子も良くなく、サポーターから
「ヘラヘラしてんなよ。」
と言われた事さえもある。
正直…
ヘラヘラ笑ってないとやってられなかった。
サッカーしたくても出来ない。
ピッチに立てるなら立ちたいわ。
お前に何がわかるねん。
と思うほど辛かった。
2012年…
首の皮一枚繋がった選手生命。
今までと違うメンタル。
今までと違うモチベーション。
自分の存在価値、反骨心。
"見とけよ"という気持ち。
今年こそはとスタートを切った。
期待と不安。
焦りと苛立ち。
ポジティブとネガティブ。
ピッチに戻れるまで、
自分の感情が、ぐっちゃぐちゃだった。
そんな中、監督の解任。
全く力になれなくて申し訳ない気持ちと
プロサッカー選手としてこの舞台に引き上げてくれた事に感謝の気持ちが入り混じった。
と、同時にこのタイミングでの監督交代は、自分の終わりを告げたと感じた。
部分合流しかできてないレベルでの、監督交代は、出遅れ以外なにものでもない。
後任は、山口素弘。
どうなるかわからなかった。
ラッキーだったのが、意外にも早くチャンスが来た事だ。
アウェーの草津戦、その次のホームの山形戦。
ホームの山形戦は、怪我でピッチを離れてから、初めてのスタメン。
試合前、クラブハウスの軽食の時にとある出来事が。
シュナさん(シュナイダー潤之介)が不思議な事を言い出し、2人で約束をした。
内容については、いつか触れたいと思う。
その試合で、自分がこだわっていた結果を出す。
チームとしては、出なかったが、個人としては結果が出た。
この頃の自分は、まさに個人の結果にこだわっていた。
良くも悪くも、個人の結果だけにフォーカスしていた。
それでしか評価されないと知ったから。
どれだけ身を粉にしてチームの為にとプレーしても評価されないと。
そこからは、勢いにも乗り、結果が出た。
昇格は出来なかったが、自分のパフォーマンスに手応えを感じていたし、ある程度、個人の目標は達成できた。
選手としても成長できたと。
正直、このメンタルが良いのかどうかはわからない。
表裏一体だと思う。
1番ベストなのは自身の結果でチームを勝たせる。
これがベストなのであろう。
そこまでの実力はなかった。
それでも、自分にとっては、大きかった。
"引退"
を決意しているとこからの這い上がりだったから。
実は、首の皮一枚繋がった原因も、年明けにあるルートから耳にしていた。
それが
"奥大介" という存在である。
事実上、満了だったところを大介さんが反対してくれたと。
大介さんが自分を必要とし、残してくれた。
リハビリしてる時も、いつも声をかけてくれて、気にしてくれた。
大介さんがいなければ、サッカーはやめていたんだと知った。
それが、余計に力をくれた。
この年から
自分の中でサッカーというものの位置づけが変わった。
サッカーは仕事。
無論、好きな事を仕事に出来る。
凄くありがたい。
けど、サッカーは仕事。という位置づけである。
あなたの評価、価値は??
紙面で出される。
そういうメンタルもこの頃の自分には良かったんだと思う。
そうでもしなければ、やってられなかったから。
それでも、サッカーは楽しかった。
楽しめていたから良かった。
翌年も、
ほぼフルタイムで出場することが出来た。
この、4年間で、たくさんの経験をした。
自分にとって、良い事も悪い事も。
怪我をし、長い間ピッチから離れ、サッカー選手としては不甲斐ない日々を過ごしたが、その期間、1人の人間としては大きく成長出来たし。
その後、サッカー選手としても成長出来た。
けど
ここでも思うのは
やはり、いつ、どんな時も人に救われてる。
きっと、そういう人生なのだと改めて思う。
人に恵まれて、人に手を差し伸べられて、
成長していくんだと。
次は
シュナイダー潤之介との秘話や
横浜FC時代にあった秘話に
触れたいと思います。
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