大学3〜4年生。

いよいよ大学3年生になった。
この1年が本当に激動だった気がする。

まず生活で大きな変化があった。
それは、部屋っ子から部屋長になるということ。
色々準備も大変だったが…
正直、居心地は今までよりも良かった。
それはそうだ…自分の方が上になるからだ。

そして、春合宿。

トップスタートで臨んだこの合宿。
当時この合宿後ぐらいに、新しいコーチが来ることになっていた。

正直に書くと、この頃の自分は入学当時ほど、意識も高くなくやる気もなかった。

この2年間で色々なものを見過ぎてしまった。
理不尽な事もあったし…
なんで?なにそれ?
と思う事もたくさんあったからだと思う。
2年時の頃のように、自分に厳しくしてくれる存在もいなかった。

要は…甘ちゃんの腑抜け。

この合宿でも顕著にそれがでていた。
必死さはなく、ただただこなす。

今思うとすごいが…
当時ある事件が起きた。
それは、新しいコーチが外から走りのトレーニングを見ていた。
トレーニングが終わると呼び止められた。
その時に言われた言葉が…
「なんで真面目にやらないの?能力あるのにもったいない。」

それに対して、自分が返した言葉が凄かった。
「いや、真面目にやってもあんた達はちゃんと見ない。評価もしない。意味ある?」
「それに、サッカーに人生かけてない。どうしてもサッカーで生きていきたいなんて思ってない。」
と、言い放った。

今思えば、衝撃的発言やと思う。
凄く失礼やし、生意気やし、ありえへん発言。

けど…
これが当時の自分の素直な感情だった。
何一つ、嘘偽りの無い素直な感情。

その言葉を聞いたコーチは
何も言うてこなかった気がする。

そんな思いとは裏腹に、
春合宿期間中にSBにコンバート。

これがやる気を無くす決定打だった。
けど、まさかのスタメン組でのコンバート。
それでも、受け入れ難かった。

一応、迷惑のかからない程度にこなしていた。
ところが、開幕の1週間前に内転筋を痛めてしまった。
開幕戦はメンバー外
第二節で途中から大学リーグデビュー。
第三節スタメン。

この後に事件は起こった。
ある事情で実家に1週間ほど帰った。

いつ戻ると言わなかったのが原因らしいが、
戻ってきた時には、トップに居場所はなかった。

当時の監督にグランドで
「帰ってきました!」
と伝えたら、目の前でシカトされ素通り。

カチンときて、監督の目の前に立ちはだかり足を止めさせ…
「帰ってきたんですけど、どうすればいいですか?」
と、すると監督は
「もう来なくていい。勝手にしろ。」
と、それを言われた自分は…
「わかりましたー!」
とグランド後にした。
その時に、トップの選手とすれ違い
「あれ?なんで?どした?」
となったが、
笑いながら「勝手にやれって言われたから、とりあえず寮帰るわー。」
と気にもしてなかった。

そこから
2週間ほど、部員が200人ぐらいいる中で無所属という扱いだった。

要は干されたのだ。

これは、自分ともう1人いた。
毎日2人でボールを蹴る日々。
別に苦でもなんでもなかった。
楽ちんやなーとさえ思っていた。

その頃から、麻雀を覚えだした。
同級生で夜な夜な麻雀する日々。
楽しくて仕方なかった。
毎日、毎日徹夜で麻雀に明け暮れていた。

2週間ほど経つと、ホワイトボードに
「武岡 ○○ B1合流」という文字が。

ようやくかと思った。
そこでまた事件は起きる。

ある日のIリーグの試合で、
2人組みのアップの時に、ともに干されて合流した○○と組んでアップをしていた。

2人とも試合に入れ込むタイプではなく、リラックスして笑ったりしながらアップをしていた。
それが、試合後に事件を引き起こす原因になるとは、思いもよらず。。。

試合は負けた。
そして、その後監督の激昂。
矛先はアップの時の話に向けられた。
「ヘラヘラふざけてやりやがって、お前らみたいなのがいるから、勝てねーんだよ。」
と言われた…
この時、心の中では…
「は?何言ってんの?どう見ても俺らパフォーマンス悪くなったやん。はい?意味わからん。」
と思っていた。

さらに激昂は続き、挙げ句の果てには…
「お前らはもう使わない。」
と言われた。

ここで面白かったのが…
○○は次の試合も使われ…自分だけ使われなかったのだ。

それには、笑った。
なかなかおもろいやん。
別にいーけど。

これがさらに麻雀生活に拍車がかかる要因となった。
サッカーは、ほんまに適当にするようになった。
毎日、毎日徹夜で麻雀。
お日様に挨拶して朝ごはん。

酷い時は寝ずに紅白戦出たりとかしていた。
そんな中、9月ぐらいかな?

身体に異変が出始めた。
全く眠れなくなってしまったのだ。
12時に布団に入ったとしても、眠れるのは5.6時とかで、2時間で目が覚める。
そんな日々が続き…
ついには市販の睡眠薬まで飲むようになっていた。
もう何もかもがつまんなかった。
全てがどうでもよくなった。
市販の睡眠薬も弱いのから始まり、すぐ効かなくなり、強いのに手を出していた。

それでも眠れなくなった時に、いよいよやばいかなーと思い監督に相談した。

しばらく実家に帰れとの判断。
1週間ほど帰省した。
これ以上ないくらい実家で眠ったのを覚えてる。
睡眠薬飲んでも眠れなかったのが、不思議なほどに。

その後、寮生活に戻ったが…
自分の中で不思議な感覚だらけだった。

思考クリアというか頭の中がすごくスッキリ。
プレーにも余裕があり、全てが上手くいく。
驚くほど、クオリティーが上がった。

サッカーの調子がすこぶる良かった。
きっと人生で1番上手かったかもしれない。
何やっても上手くいく。

正直そんなレベルだった。

申し訳ないけど…
当時の自分はトップにいる選手ですら
下に見ていたと思う。

トップチームの成績は悪く、降格もあるんじゃ無いかと言われているぐらいだった。

そんなの自分にはどうでもよかった。
「ざまーみろ」
とでさえ思っていた。

そんな日々が続き、
Iリーグは関東大会で負けてしまった。
結局、あの事件以降スタメンで出ることは1度もなかった。

その頃にある日のトレーニングが終わった時に、トップのコーチに呼ばれた。

「調子良さそうだな。トップに呼ぶかも。」

と…即答で断った。
実は夏ぐらいに1度声をかけられたことがあった。
紅白戦見ていたらしく、終わると呼び止められ
「調子良いじゃん。トップでもそれくらい積極的にやればいいのに下だと出来んじゃん。」
と言われた。
自分はそれに対して
「つまんないんで大丈夫です。」
と言い放った。

どうせ呼ばれないだろうと思っていたら…
数日後にホワイトボードに
「武岡 ○○ トップ参加」

その日の紅白戦で良かったのか、そのまま合流。

週末の大学リーグ戦、まさかのメンバーイン。
そして45分出場した気がする。

ラスト5試合。
トップで試合に出た。

正直余裕だなと感じた。

この頃に、
本気でプロ目指そうかな?
無理やと思ってたけど、自分でもなれるかもしれない。
という感情が芽生え始めたのを覚えている。

ただ、当時の国士舘は降格争い真っ只中。
最終節で4チーム直接対決。
負けた2チームが降格。

国士舘は後半残り12分で2-4で負けている。
絶望的。。。

そんな状況でも、自分はピッチでまた抜きして遊んでいた。

それほど余裕があったのを覚えている。
その状況を楽しんでいた。
やばいとは感じてたけど、何より楽しんでいた。

まさかの大逆転で1部残留。
嬉しかった。
4年生は泣いていた。

大逆転の残留により、翌年1部で出来る。

就活や。やるしかない。

と強い決意をこの時に固めた。

そして待ちに待った4年生。
今までの不真面目を全て捨て…
ガムシャラに必死に死に物狂いに頑張った。

背番号もまさかの10番。

歴代の先輩達を見れば、自分には重かった。
10番を背負うような選手じゃないのを自分が1番知っていたからだ。

本当に日々死に物狂いだった。

不思議なのが…
こういう時ほど物事が上手くいかない。
チームは、連勝につぐ連勝。
途中まで負けなし。
凄く良い成績を残していた。

そんな中…
自身のパフォーマンスといえば、去年と比べ物にならないくらい良くなかった。
自分でもわかっていた。
もがき苦しんだ…
なぜ?なんで?と日々、自問自答の繰り返し。

当時…
天皇杯も勝ち進み、鹿島アントラーズと延長までもつれ、PKで敗戦というところまでいった。

思いの外、反響があって驚いた。

凄く楽しかったのを覚えてる。
だからこそ、今、天皇杯の怖さもよくわかる。

大学リーグは2位。

総理大臣杯も2回戦か3回戦で敗退。
インカレも2回戦か3回戦で敗退。

結局タイトルは取れなかった。

自身の進路となると…
1度だけ湘南に2日間だけ練習参加したぐらいだ。
それは、当時の監督が菅野将晃さんという方であり、中学生の頃の選抜のコーチであったのもある。
菅野さんの下のヘッドコーチが、中学生時代に通っていた宇治FCの監督であった小笠原唯志さんだったからだ。

自分でもよくわからない練習参加だった。

結局何も決まらないままリーグ戦が終わり。
謎の練習参加の話が舞い込んだ。

サガン鳥栖だ。

当時、鳥栖のスカウトであった都丸さん。
別の選手を観に来たが、自分のプレースタイルが目に止まったらしい。

それで1度練習参加にと。

今でも鮮明に覚えてる…
練習参加は12月第1週目の5日間。
J2のリーグ戦の最終戦週だ。

死ぬほど緊張して、練習参加したのを覚えてる。

初日はなんとか上手くいったが…
日に日にプレーがダメになっていった。

選手に怒鳴られ、コーチに怒鳴られ。

コーチに怒鳴られた内容は
今でもそのコーチと仲良いからいつもその話になる。

紅白戦が終わり、若手トレーニングに入る前に
「お前の良いところなんなの?これじゃなんもわかんないよ?何しに来たの?今から見せてよ。」
と言われ、めちゃくちゃムカついて、若い子を無茶苦茶削ったのを覚えてる。

人見知りの性格が全開に出ていた。
帰り際の飛行機の中…
もう2度とここに来る事はないなと思いながら帰ったのを覚えてる。

あー終わったなと。

この練習参加の後に
親には
「ごめんなさい。プータローです。」
と本気で伝えた。

同級生の仲間は
就活して内定決まってる人もいた。
そんな中、就活もせず、JFLはいかないと決めていたから、本当プータローが決まっていた。

インカレの1週間前に
監督から「鳥栖からオファー来たぞ。鳥栖が獲ってくれるみたいやぞ。」

え?
まじ?

と信じられなかった。
インカレの直前で、まさかの大逆転。

プロサッカー選手

になることが決まった。
ただただ、うれしかった。

よく聞かれるのが、
サッカー選手じゃなかったらとか、聞かれるが
本当にプータローで何もない人間だった。

自分からしたら
大学リーグもまともに出てないし
3年間ほぼIリーグやし

そんな人間でも、何が起こるかわからないというのが身に染みて感じた。

これが
自分の大学生活。
もちろん、ひたむきに夢に向かって。
が理想。
でも現実は違った…
紆余曲折し、目を背け逃げ出して、最後はラッキー。

みんながみんなキラキラして
サッカー選手になるわけじゃない。

本当に自分は恵まれている。

たくさんの人に
出逢い、救われて、手を差し伸べてもらいプロサッカー選手になれた。

決して実力でなれた選手じゃない。

だからこそ、どんな時でも這い上がる事が出来たのかもしれない。

自分は自分の人生を誇りに思う。

こんな風にサッカー選手になったから
余計に思う。
本当に、人生何が起こるかわからない。
チャンスがどこにあるかもわからない。

と。

長々と読んでいただきありがとうございました。

プロになるまでの過程を書こうと思ってたからプロに入ってからの生活は、書こうか悩んでます。

皆さんどう思うか意見ください。

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