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迫りくる大学院入試 -結局は通過点編-

 皆さんこんにちは。
大学院入試の最終試験まで残すところ27日のホリードAです。

さて、大学院入試が迫っています。
焦りもありますが、その分想定問答を考え回答を準備することや、先行研究を改めて見返すことを通じて緊張感を和らげています。

かくいう私は、決まった就職先の内定も辞退し、併願校を決めないまま、現在の志望校に出願しているという、"排水の陣型受験生"の一人です。

正直に言うと、今志望している大学院に万が一不合格になるようなことになれば、行き場を失い、人生設計に大きな狂いが出てしまうという、極めて危険な状態にあります。

ただし、こうしたリスクを冒してでも、私に出せる最大限の力を持って受験したいと考える大学院が見つかったということでもあります。

このように大学院受験のことばかりを考えている私は、ついつい視野が狭くなってしまいます。つまり、大学院に合格すること自体が目的化してしまい、「どうして大学院に入学しなければならないのか」という本当の目的を見失いがちであるということです。

改めて原点に立ち返ると、私が公共政策に関わる大学院に入学しようと考えたのは、学習塾での職業経験をきっかけとして、我が国の教育環境を改善したいと考えるようになったからです。

学習塾での原体験

 私が働く学習塾では、教室内に配置される社員の数は極めて少数であり、業務のほとんどをアルバイト講師で補完するような体制にありました。しかしながら、私たちの業務は膨大であり、生徒の授業をするのみならず、カリキュラム作成や成績表の講習の日程組等も講師の業務に組み込まれています。膨大な業務は、従業員を疲弊させ、職場内の人間関係にも影響していきました。アルバイト内における「リーダー講師」と呼ばれる従業員の数名は、日々の業務に忙殺され、同僚を気遣う余裕を失いました。結果として、リーダー講師と他の従業員との溝が深まり、教室環境は悪化の一途をたどりました。

我が国の教育の現状

 一方で、日本の教育体制全体を見渡した時、上記と同じ構図が見えてくることに気が付きました。学校教員が、日々増大していく新たな業務に忙殺され、本来専門性を発揮するべき教科指導に、十分な力が注げていないという現実。過労死ラインを超えていても、一定額以上の残業代は支払われないという現実。声をあげたくとも「教員とはこうあるべき」といった社会的圧力に屈し、我慢することしかできない現実。教員という仕事のブラックさが露呈し、年々教員人気が減少しているという現実。

自身の経験

 自身の学生生活を振りかえった時、学校の授業にどれだけ満足できたかと聞かれれば、「ほとんど満足できなかった」というのが正直な感想です。もちろん、中には教育熱に溢れた尊敬できる先生もいました。しかしながら、その他の大多数の先生に対しては、どこか惰性で授業をしている印象を受けました。また、授業を分かりやすく楽しくしようとする意欲が感じられませんでした。学生時代は、そんな先生たちに落胆することしかできませんでした。

「人」ではなく「構造」

 しかし、自身が学習塾講師として「教育」に関わるようになり、あることに気付きました。教育に関わる課題は、先生一人一人のやる気の問題ではなく、企業、あるいは教育行政の構造的なところに、本質があるいうことです。膨大な業務に忙殺する中で「もっと意欲的になれ」というのは、あまりにも酷な話です。悪いのは「人」ではなく、「構造」であるのではないかという問題意識を持つようになりました。

「政策」という解決策

 その「構造」とは、すなわち「政策」であるというのが私が現時点でたどり着いている答えです。「政策」と表現すると、少し意味合いが制約されてしまいますが、より抽象的に表現すれば、ルールのことです。私たちは、あらゆるルールの支配下にあり、それを受け入れながら生活をしています。ルールは私の行動を規定しており、ルールが変われば、私たちの行動も変化するはずだと考えるようになります。学習塾における講師が働きやすくなる、あるいは学校教員がやりがいを持って専門性を発揮できる環境を作るに当たっては、個人の努力義務では限界があり、ルールそのものを変えることが必要であるというのが私の考えです。

どの道に進むべきか

 私が目指すべき道は2つありました。1点目は、学習塾業界のルールメイカーとなることです。2点目は、教育行政におけるルールメイカー、すなわち政策立案者となることです。私の原体験は学習塾にあったわけですが、学習塾は、公教育を補完する役割を担うという性質が強いことから、私はより本質的な問題の解決に繋がるであろう、教育行政官となり、我が国の教育政策に関わる仕事をしたいと考えるに至りました。

ただし、私はこれまで政策というものを専門的に学んできた経験がありません。読書を通じて知識を積み重ねることはできても、大学という場で知識のみならず、「経験」を通じた学びのある人材と比較すれば、やはり劣ってしまいます。このような課題を乗り越えるべく、私は公共政策大学院と呼ばれる、専門職大学院を志望するに至りました。

しかし、以上に述べてきたように、自身がこれから進むべき道を改めて見返すと、大学院の進学はただの通過点でしかありません。私が見据えるべきは、直近の大学院入試のことではなく、その先の教育界の行く末です。無事に大学院生となれたとしても、次は行政官として採用されるための面接に向けて、対策を進めていく必要があります。

目先のことだけに囚われず、常に未来を見据え、一日一日を大切に過ごす事を改めて意識していきたいと思います。


それでは本日は以上です。
それではまたどこかで👋


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