風に問う

風は舞う。
崖の下から闇を薄明るく照らす月に向かって崖の岩肌を優しく撫でながら舞い上がる。
風が崖の上に到達して月に向かって舞い上がろうとしたとき、月が厚い雲に覆われ、あたりが闇に包まれた。風の前に二つの眼が現れた。
二つの眼は崖の淵へと滲み寄り、ジッと崖の下を睨んでいた。やがて、雲の隙間から月光が挿し込むと崖の下に向かい駆け下りはじめた。
風でされも早いと感じるほどに早く。
風は眼の主を追って崖を降り、眼の主に問うた。
「主は1人なのか?」
「ああ」
眼の主は狼であった。
「狼は群れるものではないか」
「俺は群れるのを好まない」
狼は風を見ようともせずに答え、ぐんと速度を上げた。
風は問うた。
「何故1人で生きる」
「1人で十分に生きていけるからだ」
「1人で狩りができるのか」
「ああ、俺は誰よりも早く走ることができる。追いつけない獲物などない。他の誰も俺について来れない。1人で生きるしかないのだ」
「誰よりも?」
「ああ」
「私よりもか」
「ああ、あんたよりも早い、そしてあんたではいけないところにも行くことができる」
「そうか、私も早さには自信がある。これからあの砂地をどちらが早く抜けるのか競おうではないか」
「砂地をか」
「砂地では早く駆けることができないと?」
「俺に駆け抜けられないところなどあるものか」
「ならば競おうではないか」
狼は風の声に呼応して一段と速度を上げて砂地へ走った。
風は狼にまとわりつきながら狼と共に砂地へと進んだ。

狼は風よりも早く走った。
風は狼の後について疾った。
砂地が目前に見えたとき風は狼を飲み込み砂地にて砂を巻き上げようとした。
そのとき狼が一段と速度を上げて風を切り裂き砂地の内に入っていった。
風は「行くな」と言った。
しかし、風の声に耳を貸すことのない狼は、砂に足を取られ徐々に砂の中へと埋もれていった。
風は埋もれゆく狼に言った。
「お前が早いことはようくわかった。だが、ここには底なしの砂場がある。
そのことを教えたのにお前は」
「なあに、こんな砂地たいしたことはあるものか」
狼は沈む砂の流れを確認すると、砂の流れと逆の方向に体を燻らせ少しずつ砂場から身体を浮かせていった。
「なるほど見事なものだ」
風は狼の回りを二、三度回り、狼に別れを告げ、狼から離れた。
月光を浴び、光の根源へ届かんとばかりに舞い上がった。
風にとっては狼の速さなどどうでもいいことだった。
風はどんな生き物よりも早く疾ることができる。
狼との競争も風にとってはほんのお遊びに過ぎないものだった。
だが、風は月光を満身に浴びながら再び狼のことを見た。
なぜだか狼が気になったのだ。
狼は、体の半分くらいは砂場から逃れていた。
これなら狼が抜け出すのは時間の問題だ、と感じられたとき、一匹の仔犬が砂場に向けて駆け寄ってきた。
狼が未だ抜け出せてはいなかった砂場へと。
子犬は狼を同胞と思い、生きるための術を請うべく狼の元へと走り寄ったのか、または単にあてもなく砂場の方角へと走っていたのかもしれない。
子犬の走る理由が何であろうと狼にとってはどうでもいいことであった。ただ、子犬が自分の方へと向かってくることが狼にとって厄介であった。
「くるな」と狼は叫んだ。
だが、子犬は狼の元へと走り寄った。
狼のもとにたどり着くことで、子犬は、狼でさえも抜け出すことが困難なすべての命を飲み込まんとする砂の器に入り込んだ。
あまりにも容易に砂場は子犬を飲み込んだ。
子犬は自分の置かれた状況を把握することすらも満足にできないまま藻掻いた。
辛うじて砂の外へと逃れた狼は、その二つの眼で子犬を見た。子犬もしっかりと狼を見た。
狼は子犬と眼が合う瞬間に目を逸した。
狼は目を合わせるのを避けたのである。
子犬までの距離は狼なら届かない距離ではない。
だがこのときまでに狼は相当に体力を消耗していた。
狼はわかっていた。
今、子犬を助けんとすれば、きっとこの砂から抜け出すことが困難になることを。
狼の視線が宙を舞ったとき、風が狼の元へと吹き寄り、そして風は問うた。
「お前はどうするのだ?」
狼は天を見上げた。
そして遠吠えをした。
狼の咆哮が砂に吸い込まれて消えたとき、狼は風に答えた。
「ああ、あの子犬は俺が助ける」
「お前が命を落とすかもしれんのにか」
「我が埋もれるか?我は抜け出せる、我が駆け抜けられぬものなど・・」
「だが・・・」
風は言いかけた言葉を飲み込み、言った。
「ああ、お前ならできるかもしれんな」
狼は笑みを浮かべると、子犬の元へと飛んだ。
子犬の頭を優しく咥え、渾身の力で首を振り砂場の外へと放った。
子犬は砂場の外で身震いをすると砂地の外へ向かって走り出した。
狼には一瞥もくれることなく。
狼は再び砂場の渦の中心へと戻ってしまった。
また砂の流れに抗おうとした。
だが、砂の流れが先ほどよりも強くなった。
少なくとも狼にはそう思えた。
次第に、狼は砂の流れに飲み込まれて行った。
一度崩れたリズムはそう簡単に戻すことができないものである。
もがけばもがくほどに悪い方へと進んでいくものだ。
狼もそうだった。彼の体は砂に飲み込まれていった。
とうとう狼の顔だけが砂の上に存在するのみとなったとき、風が狼の元へと吹き寄り、二度三度狼の顔の回りを回った。
風は狼に問うた。
「後悔はあるか?」
狼は二つの眼を光らせ、風に問うた。
「貴様はどうだ?」
風は答えた。
「風はただ前に向かって吹き進むのみ、後は見ない」
「ああ、そうか、そうだな。おれもだ」
光を閉ざされ沈みゆく鼻先から微かな声がこたえた。
風は月光のその先へと舞い上がった。
−了−


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