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札幌慈恵学園 50 周年への寄稿文 -2008 年- ◇父と母のはなし◇ 慈恵学園と父母の思い出 (荒井聡)

13年前、父(荒井聡、現理事長)がメルマガに書いた内容は、以下の書き出しから始まってました。

父の創設した高等学校が五十年を迎えました。 同じく幼児教育に関心があった父とともに 母が勤めた幼稚園が54年を迎えました。

その後、創立50周年に寄稿した文章が続きます。この文章は僕にとっては原点の一つとも言えます。ただ、一つ、自分が校長としてできなかったことが、創立60周年行事です。正直、周年行事をやっている余裕がなかったので、リソースの配分としては正しかったと思っていますが、でも、心残りでもあります。2028年の70周年は盛大に祝えるように努めたいと思います。 

 
札幌慈恵学園 50 周年への寄稿文
-2008 年- ◇父と母のはなし◇ 慈恵学園と父母の思い出

昭和六十一年三月のはじめ、 上司から「荒井君、農林大臣がちょっと来てくれと言っている。大臣室へ行きなさい。」
何だろう、また大臣の主張先の説明かな。 そう思いながら羽田孜大臣の前に立ったのです。

 「荒井君、北海道庁へ行ってくれ。道庁と農水省との人事交流がなされることになった。本来なら君の出身の北海道に発令することはないんだが、北海道は全道庁という労組が強く、そこがこの人事に反対なんだそうだ。そこで北海道出身の荒井君なら労組も受け入れるだろうとの判断で君に白羽の矢が立った」
「え!北海道」私は大臣の話を聞いて鳥肌が立ってしまった。母との約束。約束を守らされている。 そんな想いが頭の中を駆け巡った。

 東京の大学に入ると告げたとき、母は「父が卒業した大学は?」といっただけだったが、農林省に就職すると告げたときは、猛烈に反対した。母は、父が創設した学校で「聡が教鞭をとることが父や母の願いだった」と告げた。しかし俊秀が集う農水省で、この日本農業の発展の絵を描きたいと夢見たのです。
母を説得したのですが、日ごろ温厚な母が頑として譲らなかった。とうとう妥協しました。 
「三十九歳になったら北海道に帰る。父が死んだ三十九歳になったら。父も好きなことをやったのだから私にもさせて。三十九歳まで。」

それから十五年、母は長年お世話になった慈恵学園の職を辞し、スリランカから帰国した私の東京の公務員宿舎に滞在するようになった。めっきり細くなった母の姿を見て、ちょっと気になったが、時は予算編成時期、中央省庁にとってもっとも忙しい時期。

年が明けて一月、母の容態がおかしいのに気づき、正月早々病院で診察を受けると、末期の大腸がんとの宣告。手術を受けたがそのまま帰らぬ人となった。私の三十八歳のときでした。

“ああこれで母との約束は終わったな。北海道との縁も薄くなるだろう”。
第一幼稚園の講堂で行われた母の葬儀を目にしながらそんな思いがよぎったのです。翌年、北海道に赴任するとは夢にも思わなかったのです。知人が「母さん生きていたら喜んだろうな、聡ちゃんの帰りを首を長くしていたからな」と述べましたが、私には「聰、約束を守りなさい」としかられ た感じです。

父は相当破天荒な人です。高校の教師をしながら、札幌第一幼稚園や慈恵高等学校を創設したのですから。もっともそれを認めていた札幌商業高校の校長は懐の広い人だなと感じるのですが。

父はアイデアマンだったようです。札幌第一幼稚園の最初の園児を募集するとき、バスを仕立て、父を始め、幼稚園の先生や私まで乗せて募集のチラシ を配ったのです。このバスで園児の送り向かいをします、この先生方が園児の教育をしますと宣伝しながら。さながら私は、幼稚園生徒第一号に見えたでしょう。

慈恵高校の第一期生は全道からやってきました。 高校卒業すると、当時あこがれの看護婦さんになれますとのアピールが効いたのでしょうか。我が家は一大寄宿舎になりました。女子高生寄宿舎です。 当時5年生だった私にはとても大人に見えたしっかりものの女子高生でした。 時々勉強を教えてくれる優しい人たちでした。

父は「将来男女共学にする、聰も慈恵で学ぶんだ。その先は医科大学を創る。聰は医者になるんだ。」 それが口癖でした。 急ぎすぎた父は、文部省に大学設立の陳情をしたその晩、心筋梗塞のため急逝しました。
昭和三十四年厳寒の二月、父の棺は、葬儀会場の第一幼稚園から平岸霊園に運ばれました。平岸街道の沿道に札幌商業高校と慈恵高校の生徒が見送って くれたのです。あの寒さの中ずうっと立ち尽くしたのです。

破天荒で満足に生活費も家に入れなかった父と子供達を支えたのは母でした。札幌商業の生徒の下宿として、後には慈恵高校の生徒の寄宿として母は忙しく働いていました。下宿人の食事の買出しに母と市場へ行くのが楽しみでもありました。

控えめな母でしたが一度母のガッツを見ました。 父が死んで整理をしていたら、借用証が出てきたのです。父がお金を貸していたのです。すすきのの薄暗い店でした。母は弟を背負い、私と妹の手を引いて、お金を返してくれと談判したのです。 あとで母になぜ子供を連れてったのかを聞いたら、 「子供たちがいれば乱暴はしないだろうと思ったから」と応えていました。
父の死後の慈恵学園の困難さは幼い私にも理解できました。なにせ学園創設の経緯は、父しか知らなかったのですから。資金繰りは、教師の手配は、生徒の募集はたくさんの困難があったようです。 そんな中で2代目の理事長を引き受けてくれたのが立原耕平さんでした。父の恩師であり、かつ急死するその日の飛行機で隣り合わせに座り、慈恵学園の状況を詳しく説明したのだそうです。まるで自らの死後を託するかのように。当時の北海道知事町村金吾さんの後押しもあってこの困難を乗り越えたのです。

北海道庁勤務を終えて一度農水省に戻りますが、再び副知事職にも匹敵する重たい任務の知事室長として、北海道に招聘されるのです。今度は道庁職員が天下り反対闘争を始めました。その結果私の辞令は一週間延期されることになります。 辞令交付の日、札幌に着くと、秘書が「知事室長、早速、知事代理で葬儀に出席してください」 「まだ知事にも挨拶してないよ、もちろん辞令ももらってないよ」 「いいんです、時間がありません、急いでください」 行ってびっくり、知事室長としての最初の仕事は驚くなかれ、第3代目の理事長水沼与一郎さんの葬儀出席だったのです。もしも一週間延びていなければこの事態に遭遇していなかったでしょう。

なんとも不思議な縁です。

今こうして慈恵学園の顧問にさせていただき、母の夢をいささかでもかなえることが出来、また政治家として北海道や故郷のために仕事が出来るのは、 父の夢でもあったろうと思うのです。

あるとき妻に「父か母が生きていたら選挙もっと楽なのにな」とつぶやくと、「そしたら私と結婚してませんね」と応えました。そうです父の葬儀の日が付属中学の試験日でした。私は試験をあきらめ八条中学に進学したのです。そこで妻に会ったのですから。

以来五十年、父が母にかけた以上の苦労をあたえてしまったようです。
でもいつでも父の教え子さんや母の知り合いの方々、 慈恵学園の関係者に助けられ、励まされています。

ある父の教え子さん、「聰、お前の親父に3年間しか世話にならなかった。しかし俺は聰を十五年間応援している。数が合わないじゃないか」。
合いません。

でも父がともした小さな火を多くの方が困難を乗り越え受け継ぎ、五十年を迎えたのです。 本当に激しく厳しい時代でした。 自主創造の精神で打ち勝ってきました。 まだまだ厳しさは続くでしょう。

これからも慈恵学園は、自主創造の精神があれば前に進むことが出来ます。 多くの知恵と汗を頼りに、誇りと自信を糧にして。
(了)

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