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荒井龍雄先生を偲ぶ (札商新聞 昭和34年3月10日発行)

校長になって2年目の年末を迎えた2017年12月31日のフェイスブックの投稿に、創立者の荒井龍雄のことを書きました。早逝した創設者の面影を同僚や生徒たちが書き綴っています。僕も会ったことはありませんが、文中からも人となりが伝わってくるように思います。

写真の銅像は、新陽高校の校舎に立っていたものですが、2018年9月6日に起きた北海道胆振東部地震で土台が崩れてしまい、今は撤去しています。直したほうが良いという声も頂いたのですが、新陽の財政状況を鑑みて、教育活動を最優先することとしました。いつか機会が来たら、直したいと思っていますが、もう少し時間がかかりそうです。

でも、きっと、許してくれると思ってます。

祖父の荒井龍雄が高校を作って59年目が間もなく終わります。
先日、学校法人札幌慈恵学園の常任理事会で学校法人を作る前に祖父が勤めていた札幌商業高校(現在の北海学園札幌高校)が昭和34年3月10日に発行した新聞を父に貰いました。
同年2月13日に急逝した祖父を偲ぶ1面の記事。
同僚や教え子の皆さんから様々な言葉が掲載されていました。
校長になってみて、私学とは、建学の精神こそが大切だと改めて思いますが、祖父の直接の言葉ではなくとも、周りの人々の言葉から何を目指していたのかが伝わってきます。
ちなみに、今の新陽高校には1万坪くらいしかありません。根上先生の追悼文から当時は8万坪があったことを知って、どうやら今の自衛隊前駅から新陽高校くらいまでの土地を定鉄に寄付してもらったのではないかと推察できます。薬科大学や附属病院を建てるなどの構想があったことがうなずけます。
祖父が亡くならずにその構想が実現できていれば、まったく違う高校・学園になっていたと思う一方で、父は八条中学に進まずに予定通り附属中学に行っていたので、母と会うことがなく、となると僕はこの世にいないことになります。
祖父が亡くなったから、僕がいることになる。
祖父の立てた志を引き継げるように来年は一層頑張りたいと思います。
今年も、これまでも本当にありがとうございました。

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札商新聞 昭和34年3月10日
◎惜しい教育者を失う
根上 新彌
「人間はなくなつたその時に、その人物の真価が定まる」とはすでに言い古された言葉であるが、荒井先生の急逝に直面して、つくづく、その実感にうたれたのは私ばかりではあるまい。その評価は、誇張なしに、百万人に一人しかいないと考えられる人物と言えよう。しかも、単に、天才的頭脳の所有者というのではなく「聡明と努力」による卓抜した実際家であつた。
 先生は幼にして、父を失い少時から苦学力行、しかも、あの苛烈な太平洋戦争のさ中に、正規のスクーリングなしに、旧制中等教員の資格(現在の高校教員資格に同じ)を得、本校に、先生として就任された。更に、教鞭をとる傍ら、北大に研究のため、通学され、その知識を深めたのである。
 先生は、常に、自分の全人格を生徒に直接ぶつけるという教育を行い、所謂、体裁ぶつた、冷たい、形式主義的教育を最も嫌つていた。担当科目は、経済、金融、社会科の時事問題等であつたが、この生きた社会と、若々しい力にあふれる生徒の心を、直接、結びつける血の通つた講義を行つた。
 先生は、近代社会と経済に深い興味と研究を注いできたのであるが、一面、極めて素朴な、倫理観を持つていたようである。先生の多くの教え子たち(約六千位になろう)のうちで、結婚式に、先生をよぶと、先生はその教え子への祝辞の中で、必ず「親孝行は至上である。たとえどんな無理なことを言われても、親に抗つてはいけない。立派なことをやつても、親不孝者は、人間としてゼロだ」と述べていた。その先生が、幼時から女手一つで育てて下さつた老母を残して逝かれたというのは、まことに皮肉にして、痛恨の極みであろう。
 さきに述べたように、先生は体当たりの教育を行つたと同時に、素行面で、心配な生徒は先生の自宅に引き取つて世話をしたり、修学旅行費の充分でない生徒に補助してやつたりした例は、枚挙にいとまがない。通夜の晩、先生担任の各級のクラス会が出来たほど、多数の卒業生が集まつて先生を偲んだのは、全くその温情あふれる人柄の賜であろう。
 現在、北海学園全体の浄化と民主化の斗争が烈しく行われているが、先生は、戦後、いち早く組合結成の先頭に立ち、札商の組合はもとより、全道の私学教組の書記長として、縱橫の活躍をして、最も前時代的経営と言われる、私立学校経営の民主化と、教職員の地位向上に貢献した業績は、実に大きかつた。
 どんな偉大にな人物にもウィークポイントはあるもので、先生の唯一の不得手は、語学だつたらしい。外来語を使う時に、しばしば濁点と半濁点の取り違えをしたことがあつたが、それが少しも先生の瑕疵とならず、かえつて幅の広い、物にこだわらない大人物に見えたから、人徳というものは不思議である。
 先生は、十四年間の札商の先生生活から、隣の学校法人慈恵学園の経営者、即ち理事長として、新しい学校づくりに専念したのであるが、長年住み慣れた札商とは相変わらず深い親近感のもとに、往来し、広い視野に立つた教育理念を我々に与えてくれた。
 先生の学校づくりの構想は「荒井構想」などといわれ、しばしば大風呂敷的な感覚を我々に与えるほど、常に大掛かりなものであつた。
併し、先生の大構想は、単にイメージと呼ばれる根拠のうすいものではなく、実にち密な計画と実践のもとに、着々と実現されていくものであつた。例えば、定鉄沿線の澄川における八万坪に上がる慈恵学園の敷地のことも、先生が亡くなつたあとも、尚誤りのない構想であつたことが実証されている。
 思い出は数限りなくあるが、タバコは全く吸わず、酒もほとんどたしなまず、日夜、教育に一路邁進した結果において、先生は、突如として倒れられた。まさに巨星地に墜つの感に堪えない。
 矢張り、百万人に一人の人、何十年に一人のひとであつた。誠に、惜しい教育者を失つたものだ。


◎荒井先生を思いて
二五期生 安東博
荒井先生といえば、「ああ、あのグライダーの先生・・・」とわれわれ同期生の間には、よく知られています。グライダーとは、あの滑空機のことです。先生とグライダーは当時の生徒であった我々には切り離せないものでもあり、それが私の先生の想いでの全部と言っても過言ではないほどです。
 私の四年生のとき使用した生徒手帳に職員住所録があって校長戸津先生に始まる当時の現職の先生の名前が並んでいますが、最後の余白のところに「荒井龍雄」とペンでわたくしが書き入れてあり、同じように、その下に担当科目を(滑空機)と書いてあります。印三殺されておらずペンでわたくしが書き入れてあるところを見ると、その頃赴任されたのではないかと想像されます。
 或る日、運動場で朝礼の時、新任の黒い詰襟の、とても若い、活発で元気な先生が紹介されました。これが先生の札商の第一歩であり、先生と生徒であった我々との出会いであったわけです。
「みなさんと一緒によく遊び・・・」(「よく学び」の方も言われたでしょうが、わたくしもあまりよい生徒でなかったたとみえて、記憶がありません)という挨拶が思い出され、そのせいでもないでしょうが、われわれ同期生は、教室で先生から授業を受けたことは一度もなく、逆に、皇帝や放課後の教室で遊んだ思い出が随分あります。
 先生は、下級生が担当のようで、滑時の上級生でした我々は、滑空機(当時は戦時中でグライダーとはいいませんでした)を校庭に引きずり出して、先生から初歩について習いました。ある程度上達してきたので、今後は先生に率いられて札幌飛行場(今は住宅地になっています)に行き、軍人の教官に習いました。「両策一パーイ!」「一、二、三、四、五・・・」「離せ!」などと地上わずか五メートル、最高で十メートルぐらいでしたが、それでも二〇〇メートルから三〇〇メートルも滑空するので、担いで戻るのが大変でしたが、案外スリルもあり、飛行場の草が目に飛び込むように地面が近づき、三点着陸する味はなんとも言えないものでした。先生もこんな感じがとても好きだったようです。こうして腹をすかしては、配給の乾パンを皆でボリボリかじり、空襲のサイレンのたびに、機体を格納して一目散に先生を先頭に飛行場を逃げ出して、北大の農場附近の木陰で休息したものです。
 空襲はその頃ちよいちよいあり何の時間で、どうして中島公園に言っていたのか忘れましたが、先生と我々のクラスの生徒が寝転んでいるとサイレンです。気がつくと頭上にB29が銀翼を光らせて白い飛行機雲の尾を引いています。もちろん、学校まで息せききって逃げ帰りました。
 先生はあまり物事にこだわらない人でした。黒の詰襟の服に国防色(当時はそう呼びました)のゲートル、そして下駄を履いて戦斗帽(どんな帽子か解りますか)という出で立ちでした。昨年の夏の花火大会の頃、町でお見かけしたときも、背広に下駄履きでした。
 先生は生徒に絶大の人気があり当時先生方の家にあまり遊びに行ったことのないわたくしも、同期の前田富士夫くん(現札商教諭)に誘われて、その頃当別にあった先生のお宅へ遊びに行き、一日を漫談で過ごさせていただいたこともありました。
 わたくしは、卒業してからは先生と接する機会がなく、その後の先生のご様子は詳しく存じておりませんが、新聞や同期生の口からは幼稚園や高校の経営、そして将来は、薬科大学や附属病院を設置しようと計画されていたこと伝え聞き、本当に惜しい方を亡くしたと思っております。せめて、もう少し生きて頂き、先生の夢を実現させてあげたかったと残念で仕方ありません。
 先生のめい福を心からお祈りいたします。
(北海道開発局官房総務課勤務)

◎恩師 荒井先生
前田富士夫
二月十三日の朝、荒井先生の急逝をもたらされた時の驚愕ほど激しいショックを受けたことはなかった。まさか?と半ば半信半疑だった取るものも取り敢えず駆けつけ先生の休まれている二階へと急いだが・・・先生の顔は安らかに休まれていると同じ状態で死相のあらわれているとは思われなかった。だが嗚呼、先生の雄魂はすでに遥かの彼方へ逝かれてしまっていたのだった。享年わずか三十九歳、一代の偉才は今ここに業半ばにして倒れ逝きぬ痛ましい哉痛恨、哀惜極まりなし、巨星地に墜つとは将にこのようなことを言うのであろう。先生の枕辺に座して私の心は空しかった。ただ、呆然とするばかりであった涙は泣こうとして出るものではない。
 万感胸に迫り雄図空しくして逝った先生の胸中を察する時私は泣くまいとして尚涙滂沱たるを禁じ得なかった。底深い暗闇の絶壁に立ったような孤独と哀愁とを戀々と感じた。
 個人的に私的、公的に互って私は荒井先生には一方ならぬお世話を受け人生の師であり兄であり友でもあった。その恩は生涯忘れられないあの明るく屈託のない声で職員室中を笑わし楽しくしてくれた人、そして信じたことに向かっては断固として貫き通した信念の人、その堅忍不抜そして温かい愛情を持ち教え子や同僚にはあくまでも厚い人間的情愛をもって接し尽力してくれた荒井先生、どれほど多くの人が先生のために救われたことか、そしてそおの恵まれない人のためには全身全力をもって尽くしてくださった先生、そのあらわれが慈恵高校の建設であり実現でこそあった。先生の夢は具体的にあらわれされて全国の高校にはない厚生課課程を設け且つ恵まれぬ子女には奨学制度もあるときく、まことに先生こそ明日の太陽であった。そして人間的に先生は努力の人であり自らの研鑽のためにも独学独修、母や弟妹を扶養されつつ勤めの傍ら熱心に勉学された努力の人でもあった。これは私達への尊い教訓である。云うは易くして実行することは仲々難しいことである。そして先生をしてあかず懐かしみ尊敬の念の禁じ得ないのは、先生のそのお母さんに対しての篤い孝養ぶりであったことである。私は先生と初めて知り合った十数年前、私が札商四年生の時まだ当別に家があった先生のところへ遊びに行った時に初めて先生のお母さんにお目にかかりその時の先生のお母さんに対する態度の優しさは以来一貫して少しも変わらなかった。じつに立派なことであり尊敬してやまないことであった。生前、先生はよく私の家へこられては父を早くに失われた先生と同じ境遇にある私にいつも口をすくして云われたことは「お母さんを大事にしなさいよ。お母さんのために孝養を尽くすことを忘れてはならないよ」とのことであった。私の札商卒業時の寄書の中で荒井先生は「母の為に生き、母によりのびよ、母こそは生涯の命、母に生き母に死せ、常に母に謝せよ」との一文を寄してくださった。まこと先生こそは親に対して優しく慰りの篤い立派な孝子でこそあった。私にはまだ先生の亡くなったということが実感を持って味えな様な虚脱感で一杯である。葬儀の日先生がいつも「死んだら俺の骨を拾ってくれよ」と云ってられたことがとうとう本当になってしまった時の悲しさとさびしさはとても筆舌を以て表現することは出来ない。三太郎の日記の一説「別れの時」の中に「・・・人間は進まねばならぬ。然もその進むに当たっては、自分と最も親しかった者・・・との別れでなければならぬ。かく別れて進まねばならぬ人の運命というものは悲しい」とあったが。いま私たちは最も愛し最も親しかった荒井先生の死に遭い、その人と別れて進まねばならない時にこそなったのだ別れは悲しい。しかし、私たちは自らの進歩のために別れて進まねばならない。泉下で先生はきっと「我の屍を超えて前進せよ。挫けるな勇気を奮って堂々と薦め」と大号令を発しておられるに違いない。嗚呼悠久の事業を樹て、いま逝かれし荒井先生、先生の死に哭く真に先生の死は痛みて限りなし、心より先生のご冥福を祈りあげると共に先生の雄姿を体々雄々しく進みゆくことをお誓い申し上げる。

◎荒井先生の面影
青木仁
荒井先生は逝った。昭和三十四年二月十三日。あの情熱的な、大きな眼、そして、意志の逞しさを、現す眉。トウキビ畑の中で育ったような健康な顔の色。
先生の面影の総てが、私の生の終末まで、鮮やかに残ることでしょう。
先生が、母校に赴任された日のことです、ゲートルを、巻いた素足に、古びた下駄、その赤裸々な、飾ることを知らない姿に、接したわたくし達学生の第一印象には、先生という昔風な概念を超えたものがありました。
そうです、わたくし達の、兄のような、親しみと、頼もしさを、強く感じたことを、覚えております。
わたくしたちの偉大な兄、非凡な兄でもありました。
いま、こうして先生のことを、書こうとすると、母校在学当時から今日現在までの、先生にご迷惑をかけた数々の想いでばかりが、しみじみと哀しくよみがえってきます。
かつての荒井先生や、私達教え子の、夢多い青春というには、あまりにも、素朴かつ、清純な想いでを、つづってみましょう。
それは、大東亜戦争も、敗色の色濃い、末期的症状を露呈してきた、昭和二十年七月。
私達、最上級生の一部の者が、荒井先生と、ともに、翌二十一年の卒業を控えて、札幌飛行場でグライダー訓練をしていました。
札幌彗星隊という、イカメしい腕章をつけ、あの広い草原の香りを胸いっぱいに、吸って、初級グライダーで大空を乱舞(?)していたのです。
しかし、間もなくあの終戦の日、八月十五日を迎えたのでした。
私達、札幌彗星隊は、いいしれぬ空虚な思いで、先生を先頭にトボトボと、中島公園の護国神社に歩み向けましたが、まだ忘れもしません、境内の木陰で、いつとはなしに先生を囲んで輪を作ってました。あの荒井先生の大きな眼が腫れて真っ赤になっていたのです。
耐えられなくなったのが、前田君や、安東君、それに、私達までも、みんな泣き出してしまいました。
丁度激流の中で流される、木の葉にも似た悲しさで一杯だったのです。
「オイ、みんなで神風特攻隊の歌を唄おう」と先生はドラ声で唄い出しました。
無念の涙をこらえつつー
それは、やがて一団のコーラスとなって夕空に響いたものでした。
荒井先生の亡くなられた当日もそうでしたが、やはり夕陽の美しい日々でした。
(昭和三十四・三・六 記)

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