私の社会人体験記

 社会は厳しいというのが私の母親の口癖で、私は毎日それを聞きながら育った。修士課程に入ると、就職が不安だという声が、どこからともなく聞こえてくる。当時の私はそういった雑音を真に受けて恐慌状態に陥っていた。混乱のままに私は就職活動をはじめ、都内の外れのとある会社の最終面接を受けることになった。今日は社長に会ってもらうからと会議室に通されたのだが、1時間経っても、2時間経っても社長は出てこない。結局今日は社長は来られないと言われ、代わりの役員と面談して最終面接は終わった。帰り際、発泡酒を握った足元のおぼつかないおじさんと階段ですれ違った。それが社長だった。
 その後無事に面接通過の連絡を受け、私はその会社に勤めることになった。その会社は表向きは出版社だったが、フロンティア精神溢れる社長のもと、把握しきれないほどさまざまな事業を展開していた。私の最初の配属先は本の配送センター、つまり倉庫勤務だった。取次業者の注文に合わせて本の発送業務を行うのだ。
 倉庫ではIさんという先輩と一緒になった。Iさんはもともと政治家の秘書をしていたが辞めて、今の会社にたどり着いたという人だった。やさしい人で、よく私をタバコ休憩に誘ってくれた。彼は通常業務の他にも、倉庫の屋上に飼われている誰の所有かわからない烏骨鶏の飼育番もしており、烏骨鶏の卵を毎日持って帰るのを楽しみにしていた。そのIさんの機嫌が悪い時がある。大抵そういう時は社長に烏骨鶏の卵を抜けがけされた後だった。社長から卵を守ること、それが私の最初の仕事になった。
 社長の趣味は農業で、社長の友達のQさんも農家でそのうえ発明家だった。Qさんの家は会社の倉庫の近所にあり、お手製の総菜や酒を持ってきては、倉庫で酒盛りを始める。そして社長に、自分が発明したという機械―いわく鼻炎がたちどころに治るという機械―の売り込みを始めるのだ。
 ある日、Qさんがウイスキーを持ってきた。あいにく社長は出張中だったため、倉庫で預かったのだがその数時間後ウイスキーは突然爆発した。もちろん倉庫に置かれている本も酒まみれである。本を乾かしているうちにその日の勤務は終わった。おおらかでのんびりした会社だった。
 そんな倉庫勤務が終わり、私もはれて本社勤務となった。本社勤務初日、私は就職祝いで仕立てたスーツをおろし(倉庫ではジーンズだったのだ)、勇んで出社したのだが、待っていたのは社長とQさん、そして社長のお抱え運転手でモンゴル出身の元軍人のBさんだった。そのまま私は車に乗せられ、I県の山奥へと連れていかれた。呆然としている私に、社長が今日は筍掘りをするから、その間お前は山の整備をしていろと言う。それで私はスーツのままBさんと木を伐って回った。一流出版社はパルプから生産するのだと思った。
 本社でまず振られた仕事は電話対応だった。会社の主力商品の一つにオカルト本があった。全盛期には禁書を翻訳したかどで、海外の魔術師から魔術大戦を仕掛けられたこともあったらしい。新入社員の3人に1人は霊が見え、10人に1人は勤務中に人ならざるものを見て辞めていくと言われていた。私は見えない方だったが、それでもオカルト本を読んだ読者からの電話はかかってくる。バリアーが張れないんです、と電話口で叫ぶ読者をなだめながら私はグーグルの検索窓に文字を打ち込む。「バリアー 張り方」と。
 外回りの営業もあった。電車で都内の書店を回るのがメインだが、時には軽ワゴン車に本を積み込んで、地方の図書館行脚もする。しかし私は免許取り立てで、運転はまったく駄目だった。それでBさんが運転を教えてくれることになった。Bさんの口癖は、「お前が羊だったら殺してやる」というもので、私が運転をミスするたびにこの口癖が出るのだった。モンゴルの諺か何かだったのだろうか。とにかく怖い時間だった。
 Bさんは熱心な教師だったが私の運転は一向に上手くならなかった。右に進むつもりが左に進む、直進するつもりがバックしている。業務には車の運転が不可欠だったこともあり、私はすこしずつ、自分の無力さ、居場所のなさを感じるようになっていた。そしてついに私が会社を辞める日がやってきた。仲のよかった編集局長のもとに退職の報告をし、翻訳家になりますと言った。編集局長は何も言わずに送り出してくれた。入社してから7ヶ月目のある秋の日のことだった。
 退職した私は別の出版社で編集の手伝いをしながらドイツ語の勉強をしていた。翻訳家になると会社を辞めたはいいが足がかりがあるわけでもない。それでもトーマス・ベルンハルトの翻訳をするということだけは決めていた。
 私がまずベルンハルトに惹かれたのは、何よりもその訳の分からなさである。極度にエモーショナルな語り、言いがかりとしか思えない罵倒、ナンセンスな造語に反復。ベルンハルトの作品には読者をたじろがせ、苛立たせる企みに満ちている。
 さらにベルンハルトには未邦訳の優れた作品が数多くある。そう思いつつ何もできずにいた頃、幸運にも池田信雄先生と知り合う機会があった。池田先生といえば日本にベルンハルトを紹介した功労者であり、代表作の長編『消去』の翻訳者である。そこで池田先生にアドバイスをもらいながら、ベルンハルトの選集を企画することにした。それからは必死で企画を練ったのを覚えている。それまでの日本でのベルンハルトの受容は主に80年代以降の後期作品に偏っていた。そこで60、70年代の作品を中心に選集を組み、前衛としてまだ若々しかった頃の清新な文体の魅力を日本の読者にぶつけてみたいと思った。
無事企画もできあがったちょうどその頃、ある飲み会で知り合った編集者の方がなんとベルンハルト好きだった。そのまま駅まで帰る彼を決死の形相で追いかけ、アポを取り付けた。後日会社に出向き企画の説明をしたが、私はきっと緊張のあまりひび割れた餅のような顔をしていたに違いない。編集者の方にはとてもやさしく対応していただいた。そして幸運にも企画を拾っていただき実現したのが、先日河出書房新社から発売されたトーマス・ベルンハルト『凍』(Frost 1963、 池田信雄訳)である。
『凍』はベルンハルトの小説家としてのデビュー作であり、話し続ける老人とひたすら耳を傾ける若者というベルンハルト作品に繰り返し現れる構造が初めて登場する記念碑的な作品である。次の老画家シュトラウホの台詞などは、後年オーストリア社会の道化的存在として名を馳せていくベルンハルト自身のその後を、あたかも予見するかのようだ。「「今日はもう一度自分を驚かせてやろうと思ってね」と彼は言った。「自分と世間を驚かせてやるのだ。この赤い上着を着ると、自分があらゆる時代を通じてもっとも偉大な道化だと思えてくる。」」
 今になって思えば、修士課程の私は何に怯えていたのだろうか。たとえ社会的に華やかな職業にはつけなくとも、肩肘張らなければ楽しく生きていくことができる。だから社会が厳しいなんていうのは、ただの脅し文句にすぎない。今でも、あの会社で社長に振り回されながら働いた日々を思い出すと肩の凝りがほぐれるような感覚がある。それこそが私が7ヶ月間の勤務経験から得た絶対的知見である。
 当時私の話を聞いてくださった、池田信雄先生、初見基先生、そして『凍』の担当編集である河出書房新社の阿部晴政さん、阿部さんを紹介して下さった西口徹さんには、この場を借りて心から感謝の意を表したい。もちろん、今も変わらず勇猛果敢に事業に邁進しているであろう前職場のみなさまにも、敬意と感謝を。 (以上はあくまでも私個人のフィルターを通した主観的な体験記である。だから事実誤認や記憶違い等あると思うが、どうかご容赦願いたい。)

初出:Brunnen 2019年春号(郁文堂)

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