コロナ禍のウィーンで

*以下は2020年11月に発表されたエッセイの再録です。(初出は文末参照)

2020年2月29日、ウィーンに着いたその日、新型コロナウィルスはまだ遠い出来事だった。ウィーンの街中を歩いていてもそこら中に人人人。きわめて感染力の強いウィルスが流行しているなんて誰も思っていない。マクドナルドの店内で「コロナ」という言葉が耳に入ってきたことはあった。けれどもそれも笑い話の種にしているといった感じで、ウィーンの街のどこにも深刻さは漂っていなかった。
 状況が変わったのはやはりイタリアで感染が拡大してからだ。何千、何万という死者・感染者が出た。それまで遠い出来事だったコロナがぐっと身近になり、ウィーン市内もどこかぴりぴりした空気が漂うようになっていた。それまで街中を歩いていても自分がアジア人だと格別に意識することはなかったのだが、イタリアのことがあってからはすれ違う人の視線が気になるようになった。観光客の多いウィーン一区などは特に問題はないのだが、人々の生活圏に入ると自分がアジア系であることを否応なく意識させられる。自分と周囲を隔てる分厚い膜のようなものが形成された感覚があった。
 そして3月11日、オーストリア政府は大学をはじめとする教育機関の封鎖を発表した。続く13日にはカフェや商店の営業制限が発表され、スーパーや薬屋のような生活必需品を扱う店以外は実質的に営業できなくなった。不要不急の外出には罰金が課せられるようになり、握手は危険だからと肘を打ち合わせる身振りにとってかわられた。不用意に他人に近づくことは歓迎されなくなったのだ。ネットニュースではオーストリア人は感じが悪いからソーシャルディスタンスもばっちりと皮肉っぽく書かれていた。
 ロックダウンのニュースを聞くや、全身に怒りが満ちた。何度考えても過剰反応では、という思いが拭えない。ウィーンに来て二週間、ろくに知り合いもいないのに、大学も劇場も奪われていったいどうやって生きていけばいいのか? オーストリア政府への罵詈雑言が繰り返し頭のなかを駆け巡った。そしてネットフリックスやアマゾンの陰謀を疑い、両社にあやしい動きがないか、ネットで調べようとした。
 それから数日は煮え切らない思いを抱きながら、学生寮に引きこもって過ごした。私はウィーンに着いてから毎日日記を書いていたのだが、この数日はほとんど記述がない。おそらくパニックでそれどころではなかったのだろう。ベッドに寝転がりながらひたすらスマホでコロナの情報を調べていた気がする。そのうちにネットフリックスの陰謀ではないことがわかった。
 そんなある日、見知らぬ男が学生寮の部屋に押し入ってきた。押し入ってきたというか、朝目覚めると当然のような顔をしてリビングに立っていた。全身をモスグリーンの防護服で包み、口には映画でしか見たことがないような巨大なガスマスクをつけている。
 すわ、強盗かと思い身構えたが、よくよく話を聞くと管理会社の人間で、誰が暮らしているのか、調査しているらしい。そしてこの部屋にはまだ人が残っているのか、と言うのだった。実際、その頃には寮内で誰かとすれ違うこともめっきり減っていた。残っているのはロシアのような国境が封鎖された国か、私のように気楽には帰れないアジア系の学生ばかり。気がつくと同室に暮らしていたはずのオーストリア人もきれいさっぱりいなくなっていた。
 そのうちに奨学金を打ち切るというメールが日本から届き、いよいよウィーンに残るのが現実的ではなくなってきた。ウィーン大学のバディーに連絡をとると、最後に市内を散歩しようと言う。そして私は見納めと思い、ウィーン市内の散歩に出かけた。地下鉄に乗り、いつも大学に通うのに使っていたショッテントーア駅へと向かう。いつもだったら人でいっぱいの車内には誰も乗っていない。窓がこころもち開けられ、空気が絶えず入ってくるように配慮されている。
 人がいないのはショッテントーアも一緒だった。ウィーン大学は市内随一の観光地区であるリング通りに面しているのだが、まるで箒でさっとはいたように人気がなくなっている。ただゴミ箱からあふれているゴミだけが人の痕跡をとどめていた。
 バディーと不器用なペンギンのように肘を打ち合わせ、再会を約して別れると私はウィーン市内を一人で散歩して回った。(外出は禁じられていたが、健康のための散歩は認められていた。)ウィーン大学も、カフェもブルク劇場も、短い間ながらも通った施設はことごとく閉鎖されている。ひたすらに寂しい光景だったが、その分、ウィーンの街をじっくりと見て回ることができた。そしてそのようにして眺めるウィーンという街は本当に美しかった。そこかしこに屹立する天使の彫刻は躍動感に満ちあふれており、武骨な石造りの建物は幾何学的な美しさを湛えている。おそらくコロナの影響がなかったらこれほどじっくりとウィーンの街並みを観察して歩くことはなかっただろう、と思うと複雑な気持ちである。
 当然のことながら街に人は少なかったが、それでもまったくいないわけではない。タイムスリップしてきたかのような観光客。所在なげに巡回している警備員、泣きそうな顔をしながら鳩を追い散らしている清掃業者。
そのままどこに行くでもなく、ぶらぶらとウィーン市内を歩き回った。とある公園ではゴリラのような大男が、猿のぬいぐるみをお供にアコーディオンを弾いていた。コロナでどこもかしこもぴりぴりした空気が漂っているがここだけは例外らしい。人々が三々五々、アコーディオン弾きを囲んでまばらな拍手を送っている。疲れきった、けれどもどこか満足げな空気が流れていた。
 街歩きにも疲れ、帰ろうと思って駅へと向かうと呆然とした表情の少女とすれ違った。天を仰ぎ、独り言を言いながら歩いている。野宿者かと思ったが、身なりはきれいである。ただ表情だけが死んでいる。彼女はそのままぶつぶつと呟きながらどこかへと去って行った。
 家に帰って荷物をまとめた。もともと半年の約束で借りた家だったが、もう戻ってくることはないだろうと思った。わずか三週間の滞在だったがそれでも荷物は増えていた。定期券、レクラム文庫、大学生協で買った大判のノート。通学時に読もうとウィーン大学にはじめて行った日に買ったツヴァイクの『昨日の世界』は、三十ページほど読みさしたところで止まっていた。
こうして当時のことを思いだしても不思議なのは、私はウィーンで特別危険な目には遭ったわけではないということだ。強烈な人種差別に遭ったわけでもない、コロナに感染して病院に運ばれたわけでもない。それなのにそのころの私ときたら、恐怖とパニックで心がすくみ上っていた。そのことを思うと何だか狐につままれたような気分になる。ともあれ、その時の自分には状況を俯瞰してみる余裕などなかった。死ぬならウィーンではなく実家で、とそんなことばかり考えていた。
 ウィーン最後の夜、スーツケースに詰め切れなかったお土産用のワインを飲みながら日本の友達とチャットをした。彼女も今年はアメリカに行くはずだったのだが、コロナの影響で中止になり、不遇をかこっているのだった。二人で愚痴っているうちに酒がぐんぐん進み、気がつくと机上には酒瓶の山が築かれていた。翌朝は二日酔いだ。重い頭を引きずりながら空港へと向かった。空港には例によって人がまったくおらず、店という店は閉まっている。喫茶店もスーパーも開いていない。人がいないと途端にミニチュアのように見える。
飛行機に乗り込んでも二日酔いは去らなかった。窓外に広がる豊かな雲海を眺めながら、私はセーダイに吐いた。

初出:Brunnen Nr. 519(郁文堂)2020年11月

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