母が象になった

 母が象になったのはまだ暑さが残るある秋の日のことだった。いつもは朝起きるとワイドショーの音が家中にごった返しているものだが、その日は奇妙に静かだった。いつもだったら朝食が並べてあるテーブルは昨夜のままでテレビのブラウン管もしんとしたしずけさを返している。このしずけさには見覚えがあった。それは癌を患っていた父の病態が深夜に急変したといってそのまま病院へとかつぎ込まれた翌朝のことだ。小学生だった私が誰もいないリビングで朝食をとっていると電話が鳴り、父が亡くなったことを知らせた。
 そのときのことを思い出したからだろうか、私は奇妙な胸騒ぎを覚えて、寝室へと向かった。そして寝室のドアをがばりとあけるとそこには灰色の大きな四足動物がアンパンマンのぬいぐるみを鼻で高々と持ち上げていた。象だった。どこからみても象だった。経験したことがないとわからないと思うのだが、実際寝室に象が現れたら、象としか言えない。私もまた、象、と呟いた。母の姿は寝室から消えていた。
 私は母の携帯電話を鳴らしてみた。大きな象の身体の脇で携帯がぶうん、ぶんと虫のような音を発していた。あっと思うやいなや寝返りを打った象の身体が携帯に覆い被さり、着信音が途絶えた。一瞬だった。途方に暮れてお母さんと呟くと象がぱおーんと小さく鳴いた。そして鼻先で私の顔を撫でた。はじめのうちは怖かったが、そのうちに敵意ではなく、親愛の情からそうしているのだとわかった。結局母は帰ってこなかった。
 母がいなくなった。よろしい。そういうこともあるだろう。しかし、代わりに象がいるとはどういうことだろう。途方に暮れて保健所に電話をかけたところ、くぐもった声の男が電話口に出た。聞くところでは象が家に出るというのは珍しいことではないらしい。いかにも退屈だ、という声で受け答えしている。そして男は殺処分という言葉を口にした。その瞬間、私は電話口に向かって怒鳴っていた。こんなつぶらな瞳をした動物を殺処分だなんて、何を言うんだ、と。こんなことを言うと笑われるかもしれないが、私には象が母の生まれ変わりに思えて仕方がなかったのだ。 
 それから私と象の生活がはじまった。暮らしてみてはじめて知ったことだが、象というのは実によく食べるのだ。近所のスーパーの野菜を買い占めて与えてみたがとても足りなかった。あげてもあげてもまだ足りないらしく、なかば怒ったような顔をしながら鼻でこちらの顔を小突いてくる。仕方なしに寝室の扉を閉めるのだが、とても意味がない。またたく間に扉はぶち破られてしまった。これではとても家がもたない。仕方なしに私は農家の友人と契約して、畑でとれる野菜を毎日段ボールで送ってもらうことにした。おかげで夕方には我が家の玄関に野菜を詰めた段ボールが塔のように並ぶようになった。その有様といえばまるで王侯貴族のよう。これをすべて一頭の象が食べるのだ、と思うと壮観だった。
 当然我が家のエンゲル係数も王侯貴族並みに上昇した。それまで私は翻訳家として活動しながら、母に援助してもらって暮らしていたのだが、母が働けなくなった今、それだけの食費を払えるわけもなかった。しばらくは母の貯金から支払っていたがとても足りない。結局私は就職することにした。あれほど嫌がっていた就職を、だ。大学を卒業後、起業し、今はいっぱしのIT長者となっている友人に頼み込むと、秘書としてなら、と言われたのでそのままお世話になることにした。今は毎日地上65階の彼のオフィスに出社しては壺を磨いている。
 食費を稼ぐのも大変だったが、それ以上に難儀させられるのは下の世話だ。象は部屋の片隅に毎日力士一人ぶんほどの糞をする。私は毎日細心の注意を払いながらその糞を運び出さなければならない。万一象がかんしゃくを起こしてこちらを押しつぶそうとしたら一瞬で私の命は終わる。糞を抱えたまま死にました、なんてことになったら笑い話にもならない。それで私は毎晩彼女が寝ている隙に部屋に忍び込み、糞を運び出す。今でこそ慣れて一時間ほどで済むようになったが、それでもはじめの頃は糞を運び終える頃には朝になっていることも珍しくなかった。糞まみれの体に朝日がまぶしい、ポカリスエット。
 このように苦労の多い象との生活だが、楽しいこともなくはない。特に私は象がぬいぐるみで遊んでいるのを見るのが好きだ。お気に入りのアンパンマンのぬいぐるみを大きな鼻で右へ左へと振り回している。端から見ると幼稚で他愛ない光景だが、当人は楽しくて仕方がないらしい。細い目をますます細くしながら、アンパンマンを振り回している。その様を見ていると仕事の疲れも吹っ飛ぶというものだ。
 思えば私は母を働かせすぎたのかもしれない。新卒で入った会社を二日で辞めたときも、そして大学院に再入学したいと言ったときも母は優しく私のわがままを受け入れ、生活をサポートしてくれた。これからは私が母の面倒を見る番だ。そう思って毎日せっせと壺を磨いている。

初出:翻車魚vol. 4 象号 2020年11月
翻車魚ウェブ:https://mambaweb29.blogspot.com

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?