その〈聲〉を、聴くこと。

小さな頃から私は、私自身の欲望がわからなかったのかもしれない。思い出されて来るのはあの幼稚園の頃の記憶だ。私は、先生が宿題に出した「将来なりたいもの」に対する答えが、全然見つからずに困り果てていた。家に持ち帰ってから、母とその事を話し合ったような気がするがどういった話し合いがなされたのかは、わからない。けれども翌日、私は「マジシャン」という答えをそこに書いて、提出したものだ。どうして私は僕は、「マジシャン」と書いたのか。それはもう、わからない。

自分の感情を出すのが下手だ。好きだ、と好きな子に言うこともできずにきた。片想いばかりをしては諦めたものだった。好きであってはいけないのだと己の気持ちを殺したのだ。どうしてか。相手にとってそれが迷惑だと思えたからだと思う。相手が自分のことを好きではないのに私が相手のことを好きだと思っては相手に迷惑がかかると本気で思えたのだ。だから相手が私のことを好きだと確信できるまでは、私は好きだという気持ちを悟らせないようにと務めた。そうすれば私の気持ちが邪魔になることもなく相手とともにいられると、本当にそう、思えたのだからである。

今になってようやく私は嫌なことを嫌だとか、辛いとか、悲しいとか苦しいとか、嬉しいとかというようなそんな思いというものを自らに許すことができるようになってきたのだと思う。それができなくて私は、私自身の心に聲に蓋をすることがものすごく巧みになってしまっているから身体の方に色々の不調が出続ける人生だったのではないのかと、今ではそう振り返る。鬱を発症しても、なかなか心のほうが参らずに、身体の痛みばかりが出続けるのにも、そうした私の蓋をする技術というものが関わってあるのではないかと思われる。

高校生の頃にはもう私は痛みとは脳内の電気信号に過ぎないと、冗談めかして語っていたものだが、本当にそう思っていた。電気信号に過ぎないものだからそれはシカトができるものだと思う。思っていた。そうだったのだと思う。思われる。私は私の思いを感情を感覚を遠ざけ続けていたのではないか。だからそれを取り戻すためにこんなにも苦労をしてきたのではなかったか。そんなことが思われる。

26の頃に身体を精神を魂を壊し切ることで、ようやくに私は私の好きなように生きることを私自身に肯定してやることができたのだったと思い出されて来る。私は、大人というものは我慢をするいきものだと確信してしまっていたのだ。だからどんなに辛いことがあっても、我慢をして、平気な顔をし続けることができるようになると決めていたのだ。それはおそらく親の姿を見ていたこともあっただろう。周りの大人たちは辛そうに見えた。彼ら彼女らは我慢をしながら生きている。私にはそう見えた。

その〈聲〉を聴くことができたならば私は今こんなにも身体が辛くはなかったろうなと思う。

私は外の聲たちばかりを聴いてしまっていた。

私という聲を聴くことがあまりうまくできてはいなかった。だからだろう。だからなのだと思う。私はあの私自身の聲としてうたわれたあの書物を肯定しきるのに今必死なのは。

否定してきたものがそこには満ち溢れてあるからだ。

だからこそ私はあれを書いたのだ。

だからこそ私はあれを歪めることなく出さなくてはならないのだ。

あれは私自身が否定してきたものを肯定するためのはじめの一歩であり終わりの一歩でもある。

そこには〈わたし〉が在るからだ。
それは自我の私を超えたわたしである。
そこにわたしがいる。ある。
だからうたわれる。
うたうのだ、と
おもわれる。

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