記憶と星と免疫と

 記憶もまた星のようなものではないかという直観がわたしのなかに現れてきたので、これを書き留めておくこととする。
 中井久夫氏の、『徴候・記憶・外傷』という本の中のある一節に触れた時に、わたしの中に降って沸いた言葉の現われがそれである。引用しておきたい。
 
「なぜか、私たちは、その後も実に多くのことを忘れているのに、現在まで記憶が連続しているという実感を抱いている。いわば三歳以後は「歴史時代」であり、それ以前は「先史時代」であって「考古学」の対象である。歴史と同じく多くの記憶が失われていて連続感は虚妄ともいいうるのに、確実に連続感覚が存在するのはどこから来るのであろうか。それは、ほとんど問題にされていないが、記憶にかんして基本的に重要な問題でななかろうか。」中井久夫『徴候・記憶・外傷』45.46頁
 
 わたしはこうした事柄を思案するたびになぜか、免疫系の話がわたしのなかに浮上するのを目撃する。免疫系について中井氏もまた広義の記憶であろうという旨を書いていた。わたしのなかではこの免疫系と記憶との問題系が密接に結びつくものとして、あるのだと思えるものである。
 ふと、意識と本質についての井筒俊彦氏の議論のことが、頭のなかに上がってくるのを眺めながらわたしは、本質というものもまた、生成されるものとしての、後生的なものであるのだろうという触覚的な感じというものを、受け取るものであり、つまりはそれは、事後的にそれとして生成されるものだが、その意味では存在するものだし、そうでなく、事後的なるものは、本質というものやイデア的なものではないとする立場に立つのならば、それは、虚妄である、ということにもまた、なるものとして、わたしの身のうちには、感じられるものではあるようであり、そのようなことを何度も考えまわりながらも記憶や意識や本質や美なるもの、形をなすことや形が解体されることなどを観察することがわたしは好きなのだ。
 
 ある星と星とが衝突する時には、かならずや、なにかの痕跡をいずれかの方には確実に残すものであろうと思う。しかしながら、それを「記憶」という言葉で語るのは、概念の過剰包摂であろうかとも思うものだが、大いに今なんとなくの直観に基づいていうのであれば、「記憶」と「記録」とは入れ子のものであるのだし、厳然たる区別がそこにあるというよりは、〈記憶〉の中に「記憶」や、「記録」と呼び習わされてあるものがあるとするような、概念間の関係を観る視座に立つ方が、わたしには、納得のいく感じがする。また、「記録」のほうはどちらかといえば「記憶」に包含されてある関係を見る方が、なんだか、無理のない感触がするものである。
 絶えざる流れや生成滅生といえども、確かに個別的なものはある種の同一性を獲得しながら生まれ生きて死ぬるものだし、そのことを疑うのは単にその個別的なものの生成の中に存在する構造化の力というものを安易に見落とす理解ともまた、なりうるものであろうというのが、かねてよりのわたしの意識の向くところのものではある。しかしながらその構造化における個物の絶対性なるものは、もちろん存在しえないともまた思えるものだから、その地点に立って見るのならば、あるのは絶えざる流れと、それを形にするある種の規制的な構造力でもあるともまた、言えるのかもしれないが、まだはっきりとは自覚のなされてはいない事柄である。

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