そもそも人は多様だったということ

コロナウイルスが出てきて2年半が経っている中で、今日起こった出来事。

  • 飲食店で、座席に透明シートを敷き、テーブルを何度も除菌し、商品を神経質に交換してもらう人を見かけた。

  • 電車でマスクをせずに乗る人を見かけた。

  • 海外赴任から一時帰国した人から、「赴任先でマスクしているのは日本人くらい」と聞いた。

  • マスク卒業をTwitterで宣言する芸能人のネット記事を見かけた。

大きく括るとみんな同じ日本人である。2年間で、同じ事象に対して抱く価値観は人それぞれここまで異なるようになった。

登場初期

新型コロナウイルスが日本に蔓延し始めた初期、得体の知れない状況の中で、ある種の連帯感があった。誰も「大したことない」という主張をするほど十分な根拠を持っていなかったためだ。
何人が感染し、何人が残念ながら亡くなった、という報道が日々される中で、増加を辿る状態。肌感覚もなく、感染率や死亡率も高まる中で、まずは観察することしかできなかった。

肌感覚やデータが集まってきた頃

一人一人がそれなりに気をつけながら生活しているうちに、データが集まってくる。新規感染者数や死亡者数の推移がわかる様になっただけでなく、肌感覚が身についてきた。
しかし、肌感覚は曲者だった。家族構成、基礎疾患、本人の年齢など、環境の違いやタイミングにより経験が変わってくる。運よく感染しない人もいれば、感染したけど軽症な人もいる。重症になる人も居れば、親族が残念ながら亡くなってしまう人もいる。そういった肌感覚と数字が結びついてくる。
この頃から、同じ感染者数や死亡率でも人によって捉え方が変わってきたのではないか。

植え付けられた肌感覚の中で続く生活

一度身についた肌感覚は、その人の明確な指標になる。そうすると、別の肌感覚を持った人の行動様式に違和感を感じる様になる。

  • ワクチンを打つかどうか。

  • 人の多いところに集まるかどうか。

  • 満員電車に乗るかどうか。

  • 頻繁に会食をするかどうか。

  • マスクをするかどうか。

  • リモートワークをするかどうか。できるかどうか。

一人ひとり行動は変わってくるが、それはこの2年間で培った肌感覚によるもの。そして、その肌感覚はたまたまその人が身を置いていた環境によるもの。
誰が正しいとか何が正しいというものではなく、まずは人それぞれのバックグラウンドがあることから認識しないと、自分の物差しでお互いを憎み合うという悲しい状態になりかねない。

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