農業の多様性(中村 豊)

 農業は多様な形を持っている。これは農業の現場を見聞きすればすぐに理解できる。とくに現場で農家の方とコミュニケーションをとり、作業を手伝うなどして会話する機会をもつと農業本来の目的、実態、現実を知ることができる。

 編者は徳島に来て弥生時代前期の遺跡調査にたずさわるようになった。学生時代に当該期の遺跡調査に参加する機会をもたなかったため、たちまち発掘調査に行き詰まることとなった。先学から現地指導をうけるなどしたが、なかなかうまくいかない。あるとき、九州出身の二人の先学(一人は故人となられたが)から、全く別の飲み会時にそれぞれ、自分で農業に従事する機会をもつべきであるというアドバイスを受けた。

 それ以降、まず地元の自然農のサークルに参加した。このサークルには2〜3年参加して稲作・畠作をおこなった。自然農は不耕起を基本としている(軽い耕起はおこなうのだが)また、除草も最低限におさえる。また、稲作は常時湛水し、土用干しはおこなわない特徴があった。初年度は休耕田を利用させてもらったが、2年目からは、佐那河内村の棚田を利用した。休耕田は電力で給水していたが、棚田は谷水をから給水し、そのメンテが大変であった。

 さぼりがちであった、地区の一斉清掃や秋祭りにも率先して参加するようになり、用水路のメンテナンスの意義や儀礼のイメージを正しく理解することができた。

 祖谷地方を訪れるようになったのもこの頃からである。祖谷地方では、山腹の緩斜面に開かれた無数の小規模集落で、もっぱら畠作を営んでいる。ここでは稲作は脇役で、ひとつの集落に1面あるか全くないかである。9月に咲き乱れるソバの花は圧巻であった。雑穀も健在で、アワ・キビ・ヒエ・シコクビエ(ヤツマタ)・タカキビの栽培を観察できた。種をもらって、家で作ってみたりもした。斜面下の沢沿いでは広大な栗林が管理されていた。畠では、主力の作物を、日当たりがよく土の肥えた生産力の高い土地をあえて避けるように栽培していた。それは単なる地域の風習でもあるのだが、種実が重くなりすぎる倒伏や、茎が太くなりすぎるズイムシの被害をさけるための、自然との絶妙ともいえるかけひきでもあるのだ。かれらの農作業を手伝い、見聞きするなかで、農業には多様な形があり、かれらの視野には生産力の発展やイネへの傾倒など存在しないことを理解できた。

 結局これらの機会が、直接発掘調査技術の向上につながらなかったのはいうまでもない。その後、水田遺構の検出には自信をもつにいたった。畠跡の検出にも成功したが、それらは一見してわかりやすく、10年以上土を見慣れて幸運に恵まれたにすぎない。

 しかし、農業のもつ本来の意味と現状を考え、生産者の視点まで降りて歴史を考えることができるようになったことだけは間違いない事実である。そしてそれは、特定の有力な農業の形にのみ歴史的価値を認めて、それ以外を排除する思想的営為でないことだけは確かであろう。農業のもつ今日的意義とその課題を展望せずに、農業起源の研究にとりくむべきではないというのが、いまのわたしの思いである。

 県西部では、かれらに畏敬の念を込めて、「ソラ」と呼んでいる。夜間山に目をやると、無数の星がさざめいているかのようにみえるからだ。平野での便利な生活に背を向ける人々が確実に歴史を積み重ねてきたのだ。榎銅鐸はあるものの、現時点でかれらの山棲みのムラがどこまでさかのぼるかは未知数である。しかし、平野での灌漑水田稲作や生産力への指向は、歴史的必然や世界史の法則などではなく選択肢のひとつであることをわれわれに懸命に伝えているのだ。

 すでにかれらにも都市生活享受の荒波は押し寄せ、やがて限界集落となって衰退するであろう。かれらは「歴史理論」のバイアスにすぎないのかもしれない。それでもわたしは「彼らのその後の運命がどのようなものであれ、歴史は彼らの大多数に純粋に選択の機会を与えたのであり、人間は不可抗力的な単線的発展の力の受動的な道具としてではなく、その運命の建設に積極的に参加する分別ある存在として行動した(K. A. ウィットフォーゲル)」と考えずにはいられないのである。(2014.7.5『中四国地域における縄文時代晩期後葉の歴史像』中四国縄文研究会より)

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