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【番外編②】自己紹介・自分史

息子への手紙という建付けで、コーチングの学びと自身の変化をnoteに記録しております、ごきげんよう。

このnoteは「自分史」ということで、自分自身を作り上げてきた履歴だったり、要因を分析できるように、
また、コーチングという文脈において「『諸橋』とは何者なのか」「こんなヤツでも変われるんだ」ということを知ってもらうという意味も込めて、思いつくままに書きなぐっておこうと思います。



学生時代まで

誕生~小学校入学

  • 1978年4月9日 群馬県にて誕生(誕生日は「し(4)あわせがく(9)る」です)

  • 非常におとなしい性格で、とてもやさしい子供だったとのこと。引っ込み思案で、親の後ろにいつも隠れている感じだったな、と記憶しています。

  • 5歳か6歳の時だっか、幼稚園の友達の家に遊びに行ったときに、運命の出会いがありました。ファミコンです。マリオブラザーズです。

    • その友達と夢中になって遊びました。そしてファミコンを買って欲しいと、ねだったのだと思います。家にもファミコンとマリオブラザーズがありました。

  • ゲーム以外でもサッカーが大好きでした。地域のチームとか無かったので、友達とボールを蹴っていました。
    そして、
    キャプテン翼も大好きでしたね。同世代ならきっと分かってもらえると思うのですが、テレビの近くにラジカセをおいて、カセットテープにテレビで放映されているキャプテン翼を”録音”してました。

ファミコン
一番最初に触ったのはA/Bボタンが■だったかも

小学生時代(低中学年)

  • 真面目でおとなしかったのかなー

  • 3年生~5年の1学期まで、父の仕事の都合でアメリカ(ワシントン州のバンクーバーというところ)にて過ごしました。これは人生でも非常に大きな出来事でした。

    • 平日は現地の小学校(英語を母国語としない生徒を対象にした特別な学級があり、通常クラスとその特別学級を行ったり来たりしていた記憶があります)、
      土曜日は、隣町のオレゴン州ポートランドまで車で送ってもらい、日本人学校に通っていました。

    • 英語を必死になって勉強した記憶があります。ノートに英語・アルファベットを書きまくっていたのを覚えています。ペンだこが出来て、「中指の先がカチカチになっているなー」と気づいたのを思いだします。

    • そして、日本からファミコンをもっていっており、そのファミコンがきっかけて(家の近くの)友達が出来ました。

    • サッカーチームに入りました(オフシーズンは、スポンジのボールを使ったフットサルのようなインドアサッカーチームにも参加していました)、結構活躍していたという自負がありました。

      • サッカースクールに参加したとき、自分は”フェイント”が出来ず、それを簡単にやってのけている人がいて、「ああ、自分って思っているほど上手くないんだな」と思ったことを鮮明に記憶しています。

    • 当時は、母からの勧めで(他の日本人の方がやっていた)テニスをやってみるか、と言われ、やってみた所、めちゃくちゃ面白くて、テニスにもハマるようになりました。

    • とにかく、言語が違う、髪の色も目の色も違う人たちと幼い時期に過ごしたこと、英語も自然と吸収する環境にいれたこと、は大きな財産だな、と思います(差別も受けて、喧嘩もしたらしいのですが、嫌だったことはあまり覚えておらず、、、後から父に聞きました)

小学生(高学年)~中学校

小学・中学校時代を一言で表すなら「学業優秀」ではあったのですが、結局は義務教育の枠の中のお勉強ばかりしていた時代だったな、と今は思います。

  • アメリカから帰国し、同じ家に戻ってきたので、5年生2学期からまた同じ小学校に通います。

  • 真面目であるのは変わらず、小学校の生徒会にも立候補しました(生徒会長にならせて頂いた)。

  • 母が「日本に戻ってからキャッチアップ出来ない、ついていけない」という不安を事あるごと言っていたのを覚えています。それにこたえるべく、(アメリカにいた時から)勉強していたのかもしれません

    • 親は厳しかった、という印象があります。「何時までに寝ろ」「テレビは見るな(馬鹿になる)」「〇〇するな」とかとか。普通の躾なのかもしれませんが。。。

    • 地域の野球チームに入った(入らされた)のですが、すごく嫌だったという、これも母からの勧めだったなというのをふと思い出しました。

  • 公立の中学生に進学し、引き続き勉強はよくできた方、かなと思います(学年で5番以内だったかと)。
    中学時代は、「部活」と「勉強」ということしかあまり覚えていません。

  • 部活はソフトテニス部に入りました(硬式は無かった)。

    • とはいえ、やり切った感はなく(当然結果も大して出しておらず)、今思うと「硬式」がしたかったということに”斜に”構えていて、「これでいいんだ」くらいに思っていたのかもしれません。

    • とはいえ、テニスは本当に好きで、テニス雑誌を買って、暇があればずっと読んでました。
      アンドレ・アガシとかマイケル・チャンとか大好きでした。テニスシューズも新しいNIKEのアガシモデルが出るのをチェックしていたり。

(昔を懐かしみ、アガシを調べていたら懐かしいCMが!めちゃくちゃかっこいいので貼っておきます。サンプラスが若い!)

  • 小学校で生徒会に入ったことに味をしめたのか、実は目立ちたかったのか、中学校でも生徒会に立候補するのですが、ダメでした。。。このあたりから、また内気なモロハシ少年に戻っていってしまったような気がします。

  • そして、大好きだったテレビゲーム(当時はスーパーファミコンだった)をしなくなるようになりました。

    • なぜ、ファミコンをしなくなったのか、単に飽きたのかな、とか部活や勉強ばかりだったからかな、と当時は思っていました。

    • が、今になって改めて気づいたのですが、ゲームは友達や仲間と遊ぶのが一番楽しかった、なと。つまり、ゲーム友達と遊ぶ一つのツールであり、友達と遊ぶこと、仲間と何かすることが楽しかったのだなーと思います(ここに私のWant toが見えていると思います)

    • とはいえ、ファミコンには新しい衝撃があり、心揺さぶれたのは事実で、熱中の対象が別のモノ(テニス)になったというのも要因だとは思っています。

  • 何が好きだったかな、と思い出してみると、
    同世代あるあるな「キン肉マン・キン消し」「ビックリマン」「ミニ四駆」「ゾイド」「SDガンダム」「カードダス」などなどありますが、
    「マジカル頭脳パワー」テレビ番組がめちゃくちゃ好きだったのを思い出しましたw
    番組後半の「ミステリー劇場」(だったか)という推理/犯人当てクイズにドはまりしてました。情報を集め推論していく(謎を解く)みたいなことが好き(Want to)なのかなーとは思います。

金田一少年の事件簿も読んでました。
今は「金田一37歳の事件簿」があるんですねぇ

高校~大学時代

まじめで内申点も学業成績も良かったので、推薦入試にて、県内の進学校に入学します。
中学までは真面目で勉強にいそしんでいた少年でしたが、高校から大学までの間、徐々に流れる人生を歩んでしまったな、とそんな履歴を残しておきます。。。

  • 高校
    群馬県の公立高校は当時は「男女別学」が大半でした。私の進学した高校も男子校で、県内1,2の進学校でした。

    • 入学早々の中学生の振り返り学力テストで、学年5番でした。これがまずかったというか、なんというか、色々尾を引く出来事だったようです。

      • 1年の担任(数学担当)がユニークで、自衛隊出身だったかと、「自衛隊ってこんな感じなのかー」って感じの授業(数学)を受けていました。全く身に入りませんでしたw

      • 成績は、5位は遠い過去となり、徐々に下降していき、数学や物理など理系科目はからっきしという状況。そんな中でも理系クラスに進学します。理由は、子供の頃に衝撃を受けた「ファミコン」を作りたいなーと思いがずっとあり(当時はソフトというよりハードの方、と漠然に思っていましたが)。

    • 部活は、当然テニス部、高校でも結局大した結果を残すことは出来ず、でした。。。県大会には出れる程度の実力はあれど、団体戦のメンバーに選ばれることもなく、、、そして、試合でもメンタルが崩れるとガタガタと落ちていく感じ。。。
      そして、部活外の友達もでき、徐々に色気づいていきwテニスから気持ちが離れていってしまいました。あんなに好きだったテニスから、「弱い自分/勝てない自分を認めたくない」と逃げていたのだろう、と後から思ったりします。

    • 親は、成績がどんどん下がっていくことを心配していたようで(これはつい最近聞きました)、
      友人(付き合う対象までとやかく言われた記憶はないですが)と出かける時など制約をかけられていたのは覚えています。周囲の友人は許可されていることも出来ない状態に窮屈さを感じていました。

  • 大学
    理系科目が全くダメだったのですが、入試でラッキーが重なり旧帝大に合格し入学することが出来ました。

    • ただし、当時は「東京に出たい」という気持ちも強く、私立理系を一通り受けては撃沈。。。国立であれば親の負担も少ないですし、旧帝大を蹴る訳にはいかないので、、、

      • 親は当然、東京の私大よりも国立を勧めてきます。当時は、家庭の事情なども理解していたといいますか、「親の決めた進路に従った」という感覚は無かったのですが、まず親元を離れたいという思いが強かったな、と今思い起こします。

      • ですので、大学進学自体が惰性でもあり、そして親から離れれればどこでもいいという感覚、ゴール自体が無い決断であったことが問題であった、と思います。

    • 大学院まで進学し、修士課程を修了しているのですが、、、クズな学生でした。大学院自体も、皆がいくから、みたいな。

    • なんでこうなってしまったのか。。。元々「ファミコン」が作りたくて、子供の頃に感じたワクワクするような、楽しい、新しいモノが作りたくて理系に進み、そしてコンピューターが学べる学科に運よく進学することが出来たのに。
      結局、何がしたいのか不明瞭なまま、6年間ずっと惰性だったのだと思います。
      大切な友達や仲間と出会い、アルバイトという社会経験、一部の学業もちゃんとやりましたし、自分の糧になることはありましたが、
      明確に目標があった訳でもなく、漠然とぬるく過ごしていました。

    • とはいえ、大学院の進路は考えた上で決断したつもりです。
      「人を楽しませること、新しいモノを生み出す力って何なのか。脳が考えているのだろう。」
      「自分って、自分のことも知らない」「自分のことを知りたい」
      「脳のことを知ってみたい」
      という具合に、脳に関わる研究室に入るに至りました。

  • 高校・大学とも、
    多感な時期だからこそ分かり合える、相談しあえる「友達」にも出会えた、かけがえのない時間だったと思っています。疎遠になってしまった友人もいますが、「今」でも人生を語り合える生涯の仲間に出会えたな、と思っています。


社会人から現在まで

新卒で東京に出てきてから、現在まで、社会人歴20年ちょっと、総じてエンタメないしIT業界におり、経営企画や事業開発、Biz Devを中心に経験してきました。

  • 就活の話
    大学時代にも転機となる出会いがありました。

    • 映画にはまります。ある作品を見て、心揺さぶらたのを記憶しています。そして、ファミコンを作りたいと童心ながら思ったのと同様に、クソ学生は「映画を作りたい」と思うようになりました。

      • 私自身の人生通底しているところでいえば、
        ・人々に新しい驚きや体験
        ・幸せやワクワク
        ・新しい気づき(こんな○○が世の中にあるのか、こんな気持ちに自分はなるのか。こんな気持ちに書き換えられてしまうのか)
        を提供したい、という欲求は変わっていない
        のかな、とは思います。

      • 大学院まで出て、自分は映画などのエンタメコンテンツを作る道を目指すことにしたのですが、今思うと、本当にゴールの無い人生を歩んだ結果、特に研究室の先生方には迷惑をかけてしまったと思います。

ベタですが、大好きな映画です

過去のお仕事

  • 新卒1社目
    運よく?映画の製作を行っている会社に新卒入社することができました。ここに書けないような話も沢山あったのですが、IR(インベスターリレーション)業務が社会人キャリアのスタートとなりました。

    • 株主総会の準備、適時開示資料作成、有価証券報告書・決算短信の作成などなど。初っ端からエクイティ関連を通じ「会社」というモノを触れることが出来たのは大きな経験となりました。

    • 数年経過した後、いくつかの映画製作に携わることができました。予算規模は非常に小さいモノではありますが、
      映画を「企画し」「作って」「売る」というコンテンツ制作プロセスにおいて、多くの人と関わられければならず、
      その一つ一つの関係がとても大事であること、
      一つの目標に向かっていく様を間近で経験できたことは貴重であり、面白い反面、ツライことも多かったな、と今では思います。

    • 当時、映画もデジタルで撮影/上映が増えはじめ、技術的な新たな流れがあったり、
      「映画ファンド」というものが出来たり(結局成功しなかったのですかね)、栄枯盛衰というか「時代は流れる」というのを感じていました。

  • 2社目
    1社目にて映画製作から離れた異動もあり、モバイル/IT系企業の転職します。

    • 経営企画業務として、「経営会議の運営」「予算管理システムの導入や運用」に従事しました。
      この時期に、予算管理やシミュレーションの仕方、ロジカル・クリティカルシンキングなど多くの基礎的なビジネススキルを学ぶことが出来ました。

    • スマートフォン(iPhone)の勢いが徐々に強まるのを肌でも感じました。ガラケーベースのサービスが主流のだった時代から、アプリ開発に軸を切るような流れをまじかに見ることが出来ました。
      やはり時代は「変わる」、と感じていたことを記憶しています。

  • 3社目
    gloopsというソーシャルゲームの会社に転職します。モバゲー/GREE全盛の時代です。スマホのシェアも徐々に増えてきていましたが、ブラウザベースのソシャゲも相当な勢いがありました。バブルだったと思います。

    在籍終盤には「パズドラ」がリリースされ、スマホアプリの可能性に色々な意味で驚愕していたのを覚えています。

    • 入社時は、データアナリストとして、SQLを叩いてデータ分析をしていましたが、全く使い物にならず、後から聞いた話ですが、辞めさせよと思っていたらしいですw

    • 入社数か月後に、IPを扱う部署を立ち上げるとのことで、その部署立ち上げから、IP獲得、管理業務に従事することになります。
      ※野球とかコンソールゲームなど、他社の権利(IP)を活用したソーシャルゲームが徐々に増えてきていました。

      • 特に、海外サッカーに関するアライアンス業務はなかなかタフでした。相当な時間とお金もかかりましたし、めちゃくちゃ大変でしたが、とても楽しかったなー、と思い出します
        (ゲームとしての大きな結果は出なかったですが)。

    • その他、各モバイルプラットフォーマーとの折衝・調整や、中国でソシャゲをリリースのBiz Dev(当社のコンテンツを中国プラットフォーマーに渡してローカライズしてもらう)とか、色々しました。

      • 中国は今ほどの規制もなかったかとは思いますが、障壁が非常に高い市場でした。かつ、中国でもスマホが都市部では浸透し始めたくらいのタイミング(2012、13年くらいの話)で、「ポテンシャルはあるが未知数」という時代だったかと思います。
        まずはチャレンジという文脈が強かったのですが、ガラケーベースのソシャゲでは当然上手くはいきませんでした。

    • そして、この会社の最後のキャリアとして、(gloopsがNexonに買収されたので)Nexon Koreaと協業して、韓国でゲームを開発するプロジェクトを立ち上げ、バックオフィス担当として韓国・ソウルに半年くらい住んでいました。

      • たしか「神撃のバハムート」が韓国(中国?)でヒットしたみたいな文脈もあり「海外いけるんじゃね」な風潮があったと記憶しています。
        韓国は当時Kakaoゲームが全盛で、ポチポチ系では太刀打ちできないのは目に見えていたので、スマホアプリの開発をしようとしていたのですが、私は途中で帰国することになります。

    • 2年ちょっとの在籍だったのですが、とても濃密で、
      外部の関係者や社内の仲間と一緒にモノを作るということ、折衝・調整して成し遂げること、に毎日ワクワクしていたな、と思います。

    • 今思うと、子供のころに夢見ていたファミコンを作りたいという事に近かったのかもしれません。コンテンツだけでなく、外部との契約から体制構築、配信etcも含めた「仕組み作り」は、ファミコンという「ハード」を作る感覚に近いのかなー、と思ったりします。
      そして、一人では到底作れないので、仲間や外部と一緒に作り上げるということが、自分の一つの幹になっているのではと考えます。

韓国に住んでいたときに良く食べていたブテチゲ(部隊鍋)の写真を貼っておきますw

今の仕事

4社目(現職)
株式会社MIXI(当時は株式会社ミクシィ)に転職します。

  • 入社時はミクシィリクルートメントにて、経営企画的な数値管理を中心に携わっていました。

  • 1年後に、モンスターストライクの部署に異動し、モンストの初期アニメプロジェクトに途中参加、リリースまでの組織サポート・プロマネに従事したり

  • モンスト3DS版ソフト  の開発後期にジョインし、契約関連の整理(BDっぽい業務)、プロマネ、販促を担当しました。

    • 3DSソフト開発では、あこがれていたファミコンを生んだ任天堂に行く機会もあり、ミーハーな気持ちが満たされたのを思い出します。

  • いずれのプロジェクトも途中からの参加だったので、初期からいない新参者が、、、という漠然としたモヤモヤした気持ちではありました。

  • その後、プラットフォーム対応をする部署の立ち上げ・対応や、外部協業プロジェクトのBiz Devなどに従事しました(細かく書けないモノが多いのですが)。

    • 前職でのアライアンス経験が生かせていたこともあり、とても楽しい時間だったなと思います。

モンスト3DS版 懐かしい!!!
  • そして、一つ自分の中でも大きなプロジェクトがありまして、
    今ではMIXIの子会社となった「千葉ジェッツ」との初期スポンサーシップのBiz Devをしました。
    単にスポンサーをする(契約する、お金を出す、ロゴを掲載する)ではなく、「如何に双方でシナジー生むか」「ジェッツの皆様と一緒にチームだけでなく業界を盛り合げよう」ということを考え、
    時には無理難題をお願いしてきましたが、様々なコトにチャレンジしたなー、と思います。

    • ただ、他の業務もあり、自身としてかなり切羽詰まっていました。
      楽しかったのですが、常に焦って、ピリピリしていました。チームマネジメントも上手くいかず、反省点ばかりです。。

  • その後、別の事業に異動し(これも途中から参加しているのですが)、サービスリリースに向けた課題解決(主にお金周りや規約などなどビジネス面のディレクション)とリリース後の運用サポートに従事してきました。

    • 更に、新しい企画考えてみたり、当該サービスの管理ツールの運用プロジェクトのプロマネをしたり、解析・分析基盤改善プロジェクトのプロマネしたり、開発部門の組織運用したり、
      を経由し、今は、対内外へのレポーティングのための数値管理を中心とした事業支援業務を行っております。
      また、数値管理などもプロではないですが、運用改善など課題解決という「謎解き」に取り組んでおります。



コーチングと出会い変わったこと!!

ちょうど、現職の開発部門の組織運営に携わっていたタイミングで、自身のスキル向上という観点で、意識し始めて、スクールに飛び込みました。

・勉強・学業で評価されていると考えていた
・その結果、言いたいことも言えない
・自己中心的な考えで抽象度も低い
・そのくせいいカッコしい
・でも甘えがあり逃げてきた
という具合にこじらせてしまっていた自分に真に向き合い、未来を見ることで、変化を起こすことが出来たと思っています(このあたりのnoteの参照)。

仕事についてもゴールを設定し、未来の自分を生きる/未来のコンフォートゾーンへのお引越しを実践しております。

例えば、単に数値を報告する”ため”の管理業務だと捉えればhave toにまみれてしまうものですが、
私のwant to(ゴール)を見つめれば、
・課題解決・謎解き
・関係性構築
といった側面での業務の幅や深度を見れるようなります。

ビジネスパーソンであれば当然の話なのですが、
今までは「バリュー出さなければ」「付加価値だしてなんぼ」と考えるのはhave toとなり、気分的にもツライところ、
自分らしい仕事をしている感覚で仕事を楽しめているかと思います。
あるいは、ゴールに向けてやるべきこと(つまりmust)であれば、楽しんで仕事もできるようになります。

まだまだ未来へ離陸したばかりではあり、ゴールを更新し続ける必要がありますが、

その未来がここに書いた自分史に「足されていく」、のではなく、
未来の自分から「逆に」刻まれていく、という感覚は忘れないようにしたい、と思う次第です。

長文を読んで頂きありがとうございました。
それでは、また。


このnoteは1万文字目標だったのですが、ここまで約8,600文字。あと1,400文字分、適宜更新していきたいと思います。


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