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恋愛に尊敬は必要か

私は35歳独身バツなしだが、自分がいつの日か結婚するイメージをいまだにうまく掴めていない。このまま結婚しない可能性だって十分にある。

結婚したくないわけでも、子供が欲しくないわけでもない。ただ私は、結婚をどこか他人事として捉えているし、自分のこともままなっていない中で誰かと結ばれようなんて、なんだか“おこがましい”とさえ感じている。

そんな私の思いが、「結婚しようと思わないの?」という友人の問いに対し、「いい人がいたら」という大変“体のいい”回答を生み出している。もう何度このフレーズを口にしたかわからない。


いい人がいたら…


ところで、「いい人」とはなんだろう。私はどういう意味合いを込めて「いい人」という言葉を連呼しているのだろうか。

正直なところよくわからないし、わからないから結婚できていないのだろうが、その中のひとつの大きな条件に「尊敬できる」というのが入っていた。つまり、相手にどこかしら尊敬できるところがないと、「いい人」になり得ないような気がしていたのだ。

「尊敬できる相手がいい」というセリフは頻繁に耳にするものでもあるから、この条件はなにも私に限った特別なものではないと思料する。かなり一般的な価値観であろう。

それが最近、もしかしたら「尊敬できる相手がいい」というのは、恋愛や結婚においてあまりいい考え方ではないかもしれない、と思う出来事があった。


私の友人に、読書家で教養があり、アーティスティックな活動をしている、可愛い女の子がいる。彼女は結婚にも子供を持つことにもあまり興味がなく、ある程度の年齢まで独身でいた。

そんな彼女から、結婚の知らせが届いた。旦那さんについての情報は全くなく、そのメッセージからは「結婚した」ということだけしか伝わってこなかった。

それが故に、私は彼女の旦那さんを、彼女という人物のみをもとに想像することになった。きっとオシャレにはあまり興味はないけど、物静かで知的で、読書と観劇とクラシック音楽が趣味の、それはそれは素敵な男性なのだろう…と勝手に妄想した。

だから実際に彼に会った時の私の驚きはとても大きいものだった。私の彼に対してのファーストインプレッションはお世辞にもいいものだとは言えなかった。彼は(詳しく書くと角が立ちうるので割愛するが)私の想像の真逆を行く人物だったのだ。その大きな驚きののち、私の頭の中はしばらくの間「?」で満たされた。なぜ彼女はこの人を伴侶に選んだのか、全く理解できなかった。

しかしその「?」は、この夫婦間のやり取りを見ているうちに、ひとつずつ消えていった。そして最終的に私は、この夫婦と一日を一緒に過ごすことで、彼女が彼と共にいることに完全に納得することとなる。

その理由はふたつ。

1つは、彼が徹底的に純粋で、底なしの「いい奴」であるということ。彼の親切心には、下心が全く感じられなかった。私は彼の好意に甘えて一日を過ごすことになるのだが、その好意の源泉が、彼が現世に到着したときにすでに小脇に携えていたであろうピュアな親切心のみであることが、私にはひしひしと感じられた。だから最初の悪印象が覆され私が彼に好感を抱くようになるまで、あまり時間はかからなかった。

もう1つは、ふたりの間にしっかりと親密な空気が流れていること。その空気は言語化できる何かによって醸成されたものではなく、このふたりだけが知っている“魔法の呪文”で作られているように思われた。


彼女が彼を選んだことが当初理解できなかった理由は、結局のところ私には彼女が彼の中で尊敬できる要素がひとつもないと感じられたからであり、かつ彼も彼女のあれこれを尊敬するだけの知性を持ち合わせていないと思われたからだ。それは正しいと思う。つまり、ふたりの間に、「尊敬」と呼ばれるものは存在していない。

しかしふたりの間には、尊敬なんて必要なかったのだ。そこにはただ、言葉で表現することができない、平たい言葉で「相性」と呼ばれているものだけが存在していた。そしてそのふたりの「相性」は私が今まで見てきたカップルの中で群を抜いていた。


この出来事は、私にこんな気づきを与えた。

恋愛や結婚の相手に求める「尊敬できる人がいい」という言葉は、「尊敬」という崇高な概念が入っているが故に、非常に高尚で真面目なニュアンスを帯びているが、実は本質的にそれは「私の相手には私が尊敬できるところがある人が相応しいはず」という“見栄っ張り”でしかなく、「年収○万円以上」や「身長○cm以上」という条件と結局のところあまり変わらないものなのではないか。

もちろん、だから「尊敬できる人がいい」という条件が悪いというつもりはない。ただ私には、今まで“本質的な条件”に思われていたそれが、実際はマッチングアプリのスクリーニングにおける年齢やら身長やら収入やらと同じ水準のものであるように感じられたのだ。


微笑みあうふたりを前に、私は密かに、見栄っ張りな私自身を恥じた。


もしかしたら私にもいつか、ただただ「相性」がいいばかりの人が現れるかもしれない。その時には、表層的な条件(もちろん「尊敬」も含む)に惑わされずに、きちんと相手のことを見つめたいと思った。それと同時に、それが今の自分にはとても難しくなっていることも悟った。

もし表層的な条件に惑わされそうになったら、ふたりのあの笑顔を思い浮かべることにしよう。そうしたら、もっと大切なことにしっかりと目を向けることが、こんな私にもできそうな気がする。


いつの日か、本当の「いい人」に出会えますように…

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