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すきぴでぴえん

「すきぴ」という言葉を前に、私の脳裏をいつも掠めるのは、中学生の頃のあの暑い夏の教室で目にした、質の悪い紙でてきた世界史のプリントの上で踊る「大スキピオ」と「小スキピオ」の文字だ。ポエニ戦争で活躍した偉人ふたりが、その偉業を伝える世界史という授業において、“大と小”というあだ名のようなネーミングで語られていることに、半分の違和感ともう半分の親しみを抱いた、あの遠い昔の日を思い出さずにはいられないのだ。


「大スキピオ」と「小スキピオ」は周知のことと思料するが(ちなみに小スキピオは大スキピオの長男の養子)、「すきぴ」という言葉を知らない読者の方も多かろうと思い(もちろん私も少し前までそのひとりだった)改めて調べてみたところ、その広範な守備範囲に驚かされた。「パリピ」と同様に、「好き」と「ピープル(people)」を足して略したこの言葉、大雑把には「好きな人」を意味しているが、それは恋人や友達に限定されず、芸能人等のいわゆる「推し」や、さらに擬人化を通してモノにまで拡張されうる。

てっきり「かれぴ」と同じ「ぴ」だと思っていたが、こちらは単に「彼氏」を可愛らしく(あるいは“あざとく”)表現したものであり、その語源は「ピープル」ではない。きちんと調べるというのは大切なことであると、改めて思わされた次第。


大学院生の頃、就活を通して知り合った学部生の友人たちの多くが、「ワンチャン」(「One chance」。可能性は低いかもしれないが、もしかしたらできる、いけるかもしれない、の意)という言葉をしきりに使っていたことを思い出した。2010年のことだ。たった2つ程度しか歳の離れていない人が、自分の知らない新しい言葉をさも当然のように使用しているのにひどく驚かされた。その驚きがあまりにも大きかったからだろうか、私はそこから10年以上が経過した今でも「ワンチャン」という言葉を会話の中にうまく取り入れることができていない。ちなみに、はじめてこの言葉を耳にしたのは「ワンチャンいけるかもしれない」というフレーズにおいてで、「はて、飲み会に飼い犬を連れてこようとしているのかな…?」と思ったことを付記しておく。


言葉は生き物であるから、死語と新語の輪廻転生は繰り返されていく。それは私の中においても同様で、小学生の頃あんなに多用していた「チョベリバ」はいつの間にかお払い箱で、今ではなんの臆面もなく「かわちい」(「かわちぃ」と綴るべきだろうか)と口にする。

ただ、その新陳代謝のペースは徐々に落ちてくる。今だに「そんなバナナ」といってしまうし、先述の「すきぴ」や「ワンチャン」の外にも、「バイブス」や「チル」なんかも私のボキャブラリーになっていない。

あ、でも「ぴえん」はいける。


そんなことを考えていたら、ふと、私は若い人たちと本当の意味で心の通ったコミュニケーションをとることができていないのではないか、と不安になった。「すきぴ」や「ワンチャン」を使いこなす能力のない私は、若い人たちの心の奥底にある琴線を捉えることが、きっとできないでいるのだろう。


フランスに住んでいた6年間、最初の2年はフランス人と私の間に大きな隔たりを感じ、次の2年は「なんだ、同じ人間じゃん」と思い、最後の2年はやっぱり分かり合えない部分が数多あることを悟った。もちろんそれは言葉のみの違いからくるものではないが、それの占める部分は間違いなく大きい。

それと同様に、ある事象に対し「チョベリバ」や「そんなバナナ」、あるいは「すきぴ」や「ワンチャン」といった言葉を直観的に当てはめられる人とそうでない人の間には、大きな「溝」が横たわっている。そしてそれは、これまで私と“その上”の間にしかなかったはずだが、実は今では“その下”にもしっかりとあることに気づかされた。そんなバナナ…と思いつつ、それは確かに存在しているのだ。

だからといって全てが分かり合えないわけではない。分かり合えるところとそうでないところがあるということをきちんと認識しておくことが、今後その「溝」を跨いだコミュニケーションにおいて重要になるのだろう。その存在に注意を払いながら、若い人と接していかなければならない年齢に差し掛かってきた、ということなのだ。


「すきぴ」という言葉をきっかけに、私は歳をとってしまっていることに思いがけず気がついた。いつまでも若いつもりでいたが、自然と「ワンチャン」が出てこない私は、それができる「小スキピオ」から見たら「大スキピオ」くらいのものなのだろう。チョベリバとまではいかないものの、もう若くもかわちくもない私に、ワンチャンはないのだ。


ぴえん。

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