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100日後のワニもテセウスも味わいたかった余韻

毎日、毎週楽しみにしてた事が終わると寂しくて、その事ばかり考えてしまいます。

100日後に死ぬワニのtwitterも、テセウスの船のテレビもそうでした。

自分だったらこういう終わり方にするなぁとか妄想するのが好きなんだと思います。

だからこそ味わいたかったのが余韻です。

このデジタルの時代、ツィッターなどのSNSでどれだけバズっているかはリアルに近い形で数値化されていくのでしょう。

それはアーティスト、クリエイター側にもダイレクトに繋がって次の一手を打ちやすくなる。盛り上がっているうちに何か仕掛けたい、というのは誰しも思うところ。

だからといって作品のオチまではすぐ公表しないにせよ、終わった後の余韻をもっと味わいたかった。

ワニさんのお話であれば、いきものがかりとのコラボもいいし、書籍化も、映画化もそれぞれはいいと思うんだけど。

一気に全部押し寄せると、有り難みがない、というか結果がわからないドキドキして楽しかった毎日が、急に現実になってしまった感じがあったのだと思う。

そう、結果自体にも価値があると思うけど、途中や終わった後のプロセスが大事にされるべきなんだと改めて思いました。

これは仕事もそうだと思う。ゴールがすぐわかる仕事なんて面白くないし、わからないからこそ工夫したりする時間が本当は楽しいのかなって思う。

テセウスの船は、ある意味裏切られてドキドキした。時間拡大版という事もあり、22時跨ぎの時には最高潮だった。

でも、犯人もわかって「あぁ!」と思ったけど、なぜか「あぁこのパターンか…」、と思ってしまったのも事実。

原作と違うラストに色々工夫した感じもあったけど、矛盾も生じてしまい、少しがっかり。 

最後に澤部が話題になったのも、作品自体というよりは、何となく肩透かし感に終わったことに意外性が加わったことによるものなのかと。

まあ、これを書きながら、ワニの話やテセウスの話をしたいとおもっている時点で、余韻は十分に味わっているのではあるのだけど。そう、楽しかったのはすごく楽しかった。

少し商業的な価値が垣間見えると、せっかくの作品が違うものになってしまうという良い例なのかもしれません。

オリンピックも、選手がいないと見る人も会場も意味がない。その準備やプロセスを楽しんでいる選手の邪魔はしてはいけないのかもしれない。

開催する、しない。も大事だけど、大会が終わった後の余韻も味わい尽くしたいなと思いました。

読んで頂き、ありがとうございました。


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