私と他者

「他者との関わり」

私の専門は「教育学」なのだが、大学4年間の中で何を学んだかと聞かれれば、「人間という存在について」と言うだろう。なんだかいい感じのことを言っているが、「中途半端にいろんなことをやったら全部中途半端になった」という意訳をすることもできる。
教育への興味はいつしか福祉への興味と移り変わり、いつの間にか人間そのものに興味が移っていった。そこには様々なテーマがあるが、「他者との関わり」というのはその中でもあらゆるものに繋がる大きなテーマであった。

「他者」という必要不可欠な存在

私たちは生きる上で、他者という存在を否応なく必要とする。

「たった1人きりでは自分という存在すらも危うくなる。私たちは他者に見られ、聞かれることを通じて私という存在を世界に現すことができる。」

これはハンナ・アーレントが言っていたことだ。私たちは人と人との「間」に生きているのであって、「間」に生きることができなくなった時、つまり1人きりになってしまった時、ある意味死んでしまうのである。
似たようなことが、SUPER BEAVERの「証明」という曲で歌われているので、紹介しよう。

大袈裟なことを言うと 結局あなたがいないと僕の全部
意味を持たないと分かった 言葉も 心も 存在も
あなたの目に映る顔を見て 僕の知らない僕を知った。

決して大袈裟なことを言っているわけではないと思う。
あなたがいるからこそ、意味をつくりだすことができる。
あなたがいるからこそ、私を知ることができる。
人と人との「間」に生きることで、私たちは自分の輪郭を確かめるのである。

また、他者と関わることで新しい地平が見えることもある。
アーレントは、個々人の持っているパースペクティブを共有することで客観的に世界を見ることができると言った。社会構成主義的な見方ではあるが、私たちの社会において唯一絶対の真実などは存在しない。他者との関わりの中で目の前にある現実を認知し、現実をつくりかえていくことができるのである。

他者と「関わる」とは何なのか?

我ながら大きすぎる問いから始めてしまったように思う。筆が止まって、はや20分が過ぎている。こういう的を絞らない書き方をするから、いつもレポートが中途半端になるのである。そんなことをしているから中途半端な人間になってしまうのである。自分という人間が嫌になる。嫌になる自分がさらに嫌になる。はあ…

徒然なるままに時間稼ぎをするのは、これくらいで辞めておこう。こういうことをしているから…(以下略)

とりあえずは、「関わる」ということを「共に物語を紡ぐこと」として書いていこうと思う。
この「物語」というやつは、俗にいう起承転結からなるあれではない。互いの「見え方」を共有し、重ね、多様なものが見えてくるというプロセスそのものを表している。
そのプロセスの中で、僕らは他者を理解し、自分を理解し、ひいては世界を理解し、新しい意味や価値を生んでいくのである。

「共に物語を紡ぐ」ということ

人には人の「見え方」がある。同じものを見ていたとしても、全く同じように認知していることは無いのである。
それは、人それぞれが持っている「理解の枠組み」が違うからだ。ものごとを解釈するためには、ものごとの中にある規則を読み取る他はなく、僕らは必ずこの枠組みを使って解釈している。
私はこの枠組みのことを「めがね」と呼んでいる。どのようなめがねを身につけるようになるのかは、生きてきた環境に依存する。
ヒグチアイの「東京にて」という曲にこんな歌詞がある。

ロックバンドから見える東京 ホームレスから見える東京
ピンヒールのOLの東京 どれも嘘でどれも本当

同じ東京を見ていても、東京の「見え方」は人によって違う。だからこそ、どれも嘘でどれも本当なのだ。

それゆえ、私たちはすれ違いや対立を引き起こす。
「見え方」が違うのだから、分かりあえないことが出てきて当たり前なのである。

だが、この分かりあえなさこそが物語を生みだす契機だ。

分かりあえなさを巡るめがねの違いを、「見え方」を重ね合わせながらはっきりさせていく。そして、最終的にはお互いの溝を埋める新しいめがねを生むのである。そうやって僕らはめがねを増やし、見えるものを増やしていく。
「理解」という言葉は「理」によって「解」すると書くが、重要なのは「理」そのものを広げることである。

「重ね合わせる」ということ

「重ね合わせる」という過程をもう少し語りたい。
私はこの「見え方」を重ねていくプロセスを、「溶け合う」と表現することもできると思う。「見え方」を重ね合う中で、自分と他者の間にある境界線が薄れ、まるで一体になっているかのような状態である。溶け合うとは言っても、完全に溶けているわけではない。私たちは完全に溶け合うことは決してできない。また、溶け合おうとする営みには「痛み」が伴う場合も少なくない。

このような状態をさらに考えるために、伊藤亜紗さんの「手の倫理」で出てくる「さわる→ふれる→さわる」という循環について紹介したい。

「さわる」とは一方的なものであり、「ふれる」とは双方向的なものである。一方的に「さわる」ことはすなわち支配を表し、双方向的な「ふれる」は対話を表す。また、ふれることは相手の内部に入り込んでいくことを指している。そうすることで相手との境界線が無くなっていく。
私たちは関係性を深めていく中で、だんだんと相手にふれていく。しかし、そうした「ふれる」の先には再び「さわる」が表れると言う。当該部分を引用すれば、

「ふれる」を突き詰めていくと、その果てには「さわる」が、つまり「ふれあう」ことなど不可能な存在として、相手が立ち現れてくる次元がある。

ということである。自分は自分であり、他者は他者であるという事実が厳然と突きつけられるのである。
soarのイベントで亜紗さんは、この再び表れた「さわる」を「事故」と呼んでいた。「思っていたのと違う」と傷つけ合い、距離がぐんと遠くなるのである。
しかし、そこで他者は他者であることを受け止めて、勇気あるあきらめを持って関係を修復する。つまり、「ふれる」ことを再び始めるのだ。このように、溶けたり溶け合わなかったりを繰り返すことで関係性は編み直され、深みをましていく。

「共に物語を紡ぐ」ということも全く同じことである。「見え方」を重ね合わせながら分かりあえなさを乗り越え、自分と他者が溶け合っている状態になる。しかし、そのうちにまた分かりあえなさが襲い、溶けていたものがバラバラになる。そしてまた重ね、溶けていくのである。

完全に溶け合うことは、「見え方」が完全に一緒になることを示すのであって、そんなことは起こらない。起こったとすれば、それはどちらかの「見え方」が支配的になってしまっていることを指す。
エーリッヒ・フロムは「愛するということ」において、

成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。(省略)
愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。愛においては、ふたりがひとりになり、しかもふたりであり続けるというパラドックスが起きる。

と述べる。さわる→ふれる→さわるの循環の中で、私は私、他者は他者として「見え方」を共有し、お互いの輪郭を揺らがせ合いながら確かめていくのである。それはフロムに言わせれば、「愛するということ」なのかもしれない。

「言葉」という代物について

「見え方」を重ね合わせることについて、「言葉」に触れなければならないであろう。「見え方」を重ね合わせ、私たちを繋ぐのは言葉である。

しかし、言葉というものは不完全だ。
言葉はいい意味でもわるい意味でも、ものごとをシンプルにする。ぐちゃぐちゃとしたものから伝えるには余計なものを削いで、了解可能な形にしていくのが言語化というプロセスである。言語化されたものは、元々のかたちとは異なったものだ。
つまり、言葉によって共有された「見え方」も、本来見えているだろう景色とは違うものなのである。そういった意味でも、私たちは完全に溶け合うことはできない。

それでも私たちは言葉と向き合わなければならない。

不完全な代物であろうと、言葉が景色の片鱗を表現していることは間違いない。他者の発する言葉から、他者の内部に入り込むことは可能である。つまり、言葉を媒介に他者に「ふれる」のである。

「オープンダイアローグ」という対話の手法では、相手の使う言葉と同じ言葉を使うことが大切にされている。「対話のことば」からの引用である。

相手が発した言葉を、専門的な言葉や自分の慣れている言葉に言い換えてしまうと、違う意味が加わり、相手が語ろうとしていることから話がずれていってしまいます。私たちは日頃の会話では、ほかの人が言ったことを、ある程度自分なりの言葉に置き換えて理解したり、言い換えたりしているものです。しかし、たとえ意味が同じだと思っていても、実際には違うニュアンスであったり、別の意味が生じてしまったりすることがあります。そうなると、視点や意味合いの違いから話がずれてしまうだけでなく、相手も自分の言葉を受け取ってくれていないと感じるでしょう。

言葉の奥にある景色をうけとるためには、自分の言葉にすり替えてはならない。非常に難しいことではあるが、どんな文脈でその言葉が使われているのか、実際に何を見ている時にその言葉が使われているのかなど、その人と長い時間を共有する中で言葉の奥にある景色の解像度を上げていくことができるのだと思う。言葉からこぼれ落ちたものを補うにはそれしかないのである。
ドミニク・チェンの「未来をつくる言葉」から引用してこの章を終えたいと思う。

「完全な翻訳」などというものが不可能であるのと同じように、わたしたちは互いを完全にわかりあうことなどできない。それでも、わかりあえなさをつなぐことによって、その結び目から新たな意味と価値が湧き出てくる。

私たちの「孤独」

最後に「孤独」について触れて終わろうと思う。
他者との関わりの中で、揺らぎながら自分の輪郭を確かめつつ、新しいものを生みだすことについて述べてきた。それは大きな可能性を秘めた営みである。そのようにして、私たちは人と人との「間」に生きている。

しかし、人と人との「間」にあっても、私たち1人1人は「孤独」なのだ。
それは前章でも記述した通り、他者に自分の見えている景色を完全に共有することはできないからである。

時に私たちは、大切な人に自分の感情を伝えきれない場面に出会い、そのどうしようもなさにため息を吐く。

砂漠の真ん中で取り残されたような、独りぼっちの感覚に陥る。

その孤独は、他でもない私自身で抱きしめるしかないのである。

だが、だからこそ私たちは他者を求める。

孤独を分かってもらうことはできなくても、孤独を分かち合うことが私たちにはできる。
他者と「見え方」を共有する中で、新しいめがねに出会い、孤独の形を変えることが私たちにはできる。

恐縮だが、私の書いた「やさしさ」という詩でこの文を閉じようと思う。
こんな長ったらしい文章を読んでくれて本当にありがとうございました。

「やさしさ」

やさしさってあなたとわたし 
ひとりぼっちじゃありえない

やさしさってみつめること 
見えないものへの想像力

やさしさってうけとること
頭じゃなくて心で感じとる

やさしさってはたらきかけること
ふれることで信じられるものがある

やさしさって迷うこと
何度も何度もあなたを考える

やさしさって孤独を分かち合うこと
分かり合うことはできなくても

やさしさって生きること
わたしもあなたもきっと誰かを救っている








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