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本当の言葉

借り物の言葉を使うと、そこに私が居ないような気がする。

そうやって答えることが決まっていたかのように、型をなぞって台詞が出てくる。それは私が話しているというよりも、私の中の他者が勝手に話している感覚に近い。借り物の言葉でも誰かを救うことがあるし、そうやって言葉は循環していくのだろうから、間違ってるってわけじゃないのだけれど、無感情な言葉を届けているように思ってしまう。

私が私として話している、と感じられる瞬間にも出会う。借り物で余白ばかりだった言葉の中にも、私が色をつけることのできた言葉があって、それらを紡ぐ時は私が私として語っていることを感じる。だからといって同じ色を伝えられるわけでもないし、私を感じたいだけの言葉であって、言葉の先の誰かを想っているわけではないかもしれない。

それなら、誰かを想っての言葉ってなんなのだろう。借り物だろうとそうでなかろうと、そこにある世界にふさわしい言葉を紡げば、やさしさを伴なうことができるのだろうか。

私のためとか誰かのためとか、そんなことじゃなくて、世界を見つめてそれを言葉にすること。伝わるとか伝わらないとかじゃなくて信じること。

それはきっと祈りのようなものかもしれない。


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