社会性を帯びた問い

ゼミの始まりのnoteにこんなことを書いた。

これからはわからないことを恥ずかしがって、
安易に答えを求めようとするのではなく、
じっくりと自分の頭で考え、行動で確かめていきたい。

直感と好奇心という言葉に戸惑いながら始まった長岡ゼミも春学期が終わり気づいたら秋学期が始まった。始まりに残した言葉を実践できているのだろうか。直感と好奇心を大事にしたい自分と論理的・計画的でないと不安になってしまう自分がまだまだ混在している。なにかにつけて、「正解」を探してしまうし、「正解がある」という前提で物事を考えてしまうことがある。論理的・計画的なことは悪くないが、正解を求めるばかり動けなくなってしまうのは「完全情報」を前提としている。情報が揃わない中で、試行錯誤するという経験がまだまだ少ない。成長したとすれば、完全情報を前提としている自分に自覚的になれたことくらいだろうか。正解を求めず、直感と好奇心で動けるようになるにはまだまだ時間がかかりそうだ。

なぜ、正解を求めてしまうのか。

頭では理解している。納得もしている。しかし、なぜ正解を求めてしまうのか。その背景には、ゼミでもよく言われる「恥ずかしいと面倒くさい」という気持ちがあると思う。1つ目の恥ずかしさは、人からどう思われるかを気にして不安になり、失敗したら恥ずかしいからやらないという選択を取らせる。やらないほうが圧倒的に楽だ。失敗する恐れもないし、失敗したことによる辱めを受けることもない。もしくは、失敗を責められることのないようにあるかわからない「正解」を探し続ける。結局、いつまで経っても正解はわからないためやらないという選択を取る事になる。2つ目の面倒くささは厄介で、気づけば楽な方に安易に流れてしまう人間の本質であるようにも思う。

問いを立て続ける

では、正解を前提にして動くのではなく、直感と好奇心で動き続けるためには何が必要だろうか。そのヒントは「問いを立て続ける」ことだと思う。鎌倉投信の創業者である新井和宏さんがこんなことを言っていた。

問いを立て続けることが重要です。
今の世の中は、哲学が不足しているんです。

問いは直感と好奇心を掻き立てる。安易に正解を求めないために必要なことだ。そもそも安易に正解が見つかるのであれば、その問いを立て直したほうがいい。その問いは、答えが出るようなものではなく、問いの答えを探すプロセスの中でまた新たな問いを生むものだ。これが「問いを立て続ける」ことだと思う。また、問いを立てる時に、「問いの方向性」も大事にしたい。問いそのものに社会性を帯びているのか?ということだ。自分はなにがやりたいのか?何が楽しく、何が嫌いなのか?という自分自身に対する問いももちろん重要だ。特に就活生においてはその問いは大きな問題になる。しかし、自分への問いに対する答えは社会との繋がりを見つけた時に少しずつ鮮明になっていくものであり、いくら自分の中を探しても出てこない。問いを立てる時に、その方向が社会に向かっているのかを意識したい。

秋学期の問い

では、いま僕が持っている問いはなにか。
それは「やさしさ」とは何か?社会の「やさしさ」の総量を増やすためには何が必要か?

その問いに対する答えは秋学期に活動しながら見つけていこうと思う。秋学期が終わった時にまた新しい問いと向き合えるように。

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