愛し憎む
母の暴力を見て育った僕はきっといつの間にか暴力によってなら自分の思いを通すことが出来ると学んだのかもしれない。間違いでは無い。今まで僕が出会った不良や本で読んだ不良や僕自身は、愛や自由を親から与えられず複雑な心を生き様に表現するかのように目つきを鋭くしていった。生意気と思われれば圧倒的な暴力の前に太刀打ち出来ず「殴りづらいから手をどけろ」と言われれば怖いにもかかわらず手をどけてしまう。暴力によって自分は言うことを聞き、相手はある種の自由を獲得する。そんな体験から学べることこそ暴力による自由だ。
ぐれた子が悪いのかぐれさせた親が悪いのか、むしろ悪いのは単純な気持ちで人を疎外した社会なんだ。「きもい」「普通じゃない」「貧乏」「なんか調子乗ってる」「低脳」「使えない」各々がどんな言葉を浴びてきたかは分からないがそのように疎外された人が健全に子育てどころか生きることすらままなるはずがない。そのくせ恵まれた社会は何も知らないので「人に迷惑をかけるなんてイカれてる」「死んだ方がいい」などと好き勝手言いやがるから嫌いだ。お前らのせいだろうがと声高に叫びたい。もちろん知らないことを責めることは出来ないし人を疎外してしまった人らにもそれをつくる環境があったのだ。究極誰も悪くないと言って僕らはどのように気持ちを晴らすことができるだろうか。いつまでも僕は傷を抱える人の味方でありたいしあの日々の気持ちは忘れられるものでもないので一緒に社会という不特定多数を憎みたいのだ。
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