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『A new start -Jリーガー田中裕介の 次なる挑戦-』

2022年、新たな道に進む事を決めてから約2ヶ月が経ちました。

2021年末でファジアーノ岡山を退団してから、今の道に進んだ経緯や動機をここで少し話したいと思います。

ご存知の方もいると思いますが、今年から東京都1部リーグに所属するSHIBUYA CITY FCでプレーヤー兼フロントで仕事をしています。

「J2からJ7へ」  

東京都1部リーグは日本のサッカーカテゴリーで言うと上から7番目に相当していて、1年に1度しかない昇格のチャンスを今年から毎年掴めたとしても、
Jリーグ参入まで最短で4年かかることになります。

世界中どのカテゴリーでも昇格するには厳しい戦いや熾烈な争いがあるので、5年、10年以上かかるかもしれません。その厳しく果てしない道のりの中に身を置く事にした理由を話します。

昨年4月、膝に大怪我を負いました。

前回のnoteにも書きましたが、今まではどんな怪我をしても常に前だけを向いてサッカー人生を送ってきました。

しかし昨年の怪我は自分にとって結果的には大きな分岐点になりました。

サッカーをプレーできないということは悲しい事でしたが、今までも経験してきた事なので、さほど大きな影響はありませんでした。

それよりも心境的な部分で大きな変化がありました。

プロ2、3年目で試合に出だした頃に漠然と立てた目標があり、それは35歳まで現役でプロとしてプレーする事でした。

病院で検査を終えて全治3-4ヶ月の診断を受けた後に自分の今までのサッカー人生を冷静に振り返る自分がいました。

本当に充実していましたし、自分が思っていた以上の素晴らしい時間だったなと思い返していました。

この怪我は順調にいけば夏までには治る。そこからの残り半年は今までのプロサッカー人生に感謝して楽しみながらボールを蹴ろう。そう心に決めた自分がいました。

それともう一つ心に芽生えた事がありました。

それは、プロサッカー選手を引退するかもしれない。

その瞬間はもう近くまで来ている。それならば、その瞬間に向けて今から色々な準備をしようと。

毎日のリハビリの時間が終われば、時間に余裕があったので怪我をした1週間後には駅前にあるパソコンスクールに通い出していました。

Jリーグ選手会には就学支援制度というものがあり、選手がセカンドキャリアに役立つ講座やスクールを受講する際に金銭的に援助をするという素晴らしいものです。

僕は22歳のマリノス時代の時に海外移籍に向けて英会話スクールに通い出して、毎週欠かさず3年間通い、移籍で1度は断念したものの、また28歳のフロンターレ時代の時に半年通いその後のオーストラリア移籍に繋げた過去がありました。

あの時も現地で通訳もいない中、私生活を不自由なく快適に過ごせた事や外国人監督が話すミーティングかある程度理解できたのは自分が未来を想定して起こした行動力によるものだったと思います。

その成功体験から、昨年も自分の未来のために今自分が出来る事をやろう。
サッカーがプレーできない痛みと悲しさの中で将来必ず役に立つ事なんだと信じて新しい事に取り組み始めました。

12月。チームからは契約満了の通知を受けました。

2021年は怪我でプレーした時間はほとんどなく、申し訳ない気持ちでしたが、プレー以外の部分でチームのためにプロとしてやるべきことは全てやり切ったと思っていたので悔いはなく、3年間の感謝の気持ちしかありませんでした。

そこから今年所属するSHIBUYA CITY FCへの入団の流れになっていくのですが、正直な所、12月に入ったタイミングでは今の選択は全く考えておらず、漠然と今年もJの舞台でプロサッカー選手として、プレーするんだろうなと思っていました。ここから大きく心境が変わっていきました。

「自分の人生の中でサッカーとはなんなのか。」

昨年怪我をしてからこの疑問を長い時間考えてきました。

自分の中で長い期間考えた結果、サッカーをプレーする事が人生の全てではなく1つの柱であるということでした。

引退する事はその柱がなくなるという事ですが、僕はその柱をまだ少し残した状態で新しい人生の柱を立てていこうと考えました。

地元である東京に帰り両親や仲間に会う事、サッカー以外の事に目を向けて楽しむ事、そして新しい事にトライして新たな柱を0から作り出すこと。

そういう自分を想像する事が日々大きくなっていきました。

年が明けた1月、気がつけばJカテゴリーのチーム探しに区切りをつけて、在京チームの下部カテゴリーの数チームの練習に参加して自分の目で今まで見た事がない環境を一つ一つ見ていきました。

そして自ら一般企業の取締役の方や人事に決定権を持つ方にメッセージを送りアポを取り、会う機会を設けていただいたり会社に訪問する時間が増えていきました。ものすごく有意義な時間でした。

本来であればチームが決まらなければただ家にいて、吉報を待つだけだったかもしれません。今まで契約などは全て代理人の方に任せていました。

幸運にも僕は長い間プロサッカー選手として雇ってもらい仕事を与えられてきました。しかし今回は初めて自分の足で動いて話を聞いて何が自分にとってベストな選択なのか。

どこに行けば自分が成長できて、輝けるのか。

社会で生きていくための仕事を見つけるために家でボーッとする時間がないくらいのオフシーズンを過ごしました。

自問自答する日々はきっと無駄じゃない時間だったと思います。

ここまで前向きに行動できたのは誰でもない自分自身の人生だからだと思います。

人から話を聞くだけで全てわかるのであれば家で待つだけだったかもしれません。

僕は常に自分が選んだ選択に責任を持ちたい。自分が考え抜いて出した選択であればどんな道でも後悔しないで前を向いて進んでいける気がしました。

そんな有意義な時間の中で1月末に決断を下しました。

決めた進路は東京都1部リーグに所属するSHIBUYA CITY FCでした。

当初サッカーをプレーする場所と仕事を別の場所で働く事でプランニングしていました。

SHIBUYA CITY FCからも当初そういう提案でしたし、他のチームもそうでした。仕事面でも何社かお誘いをいただいていました。

その中で昔から自分の中で抱えていた疑問の答えを自分から見つけにいくためにSHIBUYA CITY FCの内部に入り、全ての業務を自分の目で見たいと、こちらから提案させてもらい、それが叶いました。

今まではプレーヤーとして何不自由なく素晴らしい環境で練習をして
最高のスタジアムの中でプレーしてきました。

サッカークラブという組織は大小にかかわらず、サポートしていただいてる企業・スポンサー・サポーターの皆さん、
クラブ経営を支える会社内部のフロントスタッフの皆さん、
その地域でプレーできる環境を与えてくださる地域の皆さん。

そういう様々な方がいてこそのサッカークラブだと思います。

そのサッカークラブの根本的な在り方を会社内部に入り活動させてもらい、0から学ぶ事がプロキャリアで長い間プレーさせてもらった事の感謝や恩返しに今後繋っていくのではないかと考えました。

今は毎日朝からサッカーをして昼からはオフィスに出社してスポンサー様の会社に挨拶に出向いたり、地域の方々と新しいイベントを企画したり、サポーターの方々との新しい交流の仕方を提案する事などに取り組んでいます。

昨年12月にまさか自分が2ヶ月後に渋谷でパソコンを使いながら名刺を渡しているとは思ってもいませんでした。

ただこういう道に進んだ今、僕は毎日が楽しいと心の底から思っています。

新しい事を吸収できて新しい人に出会い、まだ見ていないこれから見る景色を想像してワクワクするからです。

今は考え抜いて決めた道を自分の可能性を信じて進んでいきます。
僕はこのSHIBUYA CITY FCを仲間と共により大きく
魅力的なチームにしていきます。

それが自分の人生の次の大きな夢に繋がっていくと信じて。

これからも様々な発信や取り組みをしていくので引き続き温かい目で
応援してもらえると嬉しいです。
長い文を読んでいただきありがとうございました。

『進取果敢』

SHIBUYA CITY FC  
Player and Sales staff   田中裕介


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