好き嫌いについて
noteにてこんな素敵な記事を読みました。
好きよりも大事な『嫌い』
https://note.mu/fumiken/n/nb83a9bbb7e2a
ロシアの大作家レフ・トルストイの「アンナ・カレーニナ」でよく引用される言葉があります。
幸せな家族ははどれもみな同じように見えるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある(アンナ・カレーニナ 1 光文社古典新訳文庫より)
嫌い=不幸とするのは乱暴な物言いかもしれませんが、嫌いや不幸の方が、より個人的でパーソナリティが表れるものなのだ、ということは、その通りだなあと感じます。
例えば、所属しているバンド内やジャムセッションで知り合った方とは「好きな音楽」について話すことをしますが、あまり「嫌いな音楽」のことについて話すことをしません。だいたいの趣味コミュニティって、そんな感じじゃないでしょうか。
話題として楽しいものでないことももちろんですが、もしかしたらとても個人的な話になるので、適度な距離感が尊重される趣味コミュニティにおいては話す方も聞く方も憚られる話題だ、って心理があるのかもしれませんね。
Instagramは「好き」のSNSだと良く言われますが、あれって写真も構図もステキなのは似通ってて、だからインスタ映えって言葉があって、まさに幸せのひとつの形なのだと思います。私のInstagramも、快のみで作りあげていますし(だからInstagramの広告は本当にイライラします)
話は変わって、先日大嫌いなトマトを食べなければならない状況になり、20年ぶりくらいに、あの忌々しい給食の時間みたいに、嫌な思いをしながら食べたのですが、その時にふと感じました。「食べたくないけど、あの時よりもいけるな」と。
サラダに乗った生のトマトは食べられる気もしませんが、ピッツァマルゲリータに乗った薄切りの生焼けなトマトや、豚肉とシソに包まれた串焼きのミニトマトは美味しく召し上がれるかもしれないと思いました。
嫌いを避け、残ったものだけが好きというのはあまりに極論で、好きも嫌いも年を経てアップデートされるし、定期的なメンテナンスも必要なんですね。
こうして、何でも食べられるという理想の幸福に近づき、Instagramのタイムラインは好きな写真で溢れかえり、Apple Musicでは好みのプレイリストを作ってシャッフル再生しまくる暮らしの中、生のトマトやセロリを齧り、Twitterで不快なやつの言動を覗き見、クソだと分かっている音楽を聴き、演奏してみる。
結局、幸福とは寛容なのかもしれないけれど、多様性が尊重される現代、「好き」を共感するより、沢山の方と「嫌い」も尊重できるような文化があるといいですね。
今日はこのくらいで。
読んでいただきありがとうございます。
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