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追悼 コービーブライアントの生き方

2020年1月27日(日本時間)の早朝コービーブライアント氏が亡くなられました。

今でも信じることのできない自分がいます。

まだ41歳で昨日まではつらつと生きていたんです。そんな彼が死亡したなんて到底信じることはできません。

特に私はNBAをこよなく愛していて彼のプレーにすごく勇気をもらっていました。彼のプレーはNBAの中でもトップクラスで歴代4位の得点記録を持っています。今年中に殿堂入りを果たすことはほぼ確定していてそのスピーチを楽しみに待っていました。一度もあったこともなく、現役中にプレーをこの目で見たこともありません。ですが彼のある所に自然と惹かれていきました。

それは”生き方”です。コービーが好きか嫌いかは人によって非常に分かれることが多くアンチもいました。ですが彼はそんな声を全く気にせずにプレーをしていました。

本記事ではコービーに対する哀悼の意を表すると同時に、彼の生き方を書いていきたいと思います。是非最後までお読みください。

このnoteを読むことで得られることは以下の通りです

・一日一日を全力で生きることの大切さ

・誰にも真似できないプロ意識

【1】コービーブライアントという男

  1.史上二人目の高校生からNBA入り

 アメリカフィラデルフィアでブライアント家に生まれた。父ジョーはNBA選手だった。コービーの名の由来は、ジョーがある日ステーキハウスで食べた神戸牛に感動し”KOBE”と名付けた。

父の移籍もあってイタリアで数年間過ごした後、高校からはフィラデルフィアに戻った。高校生の頃から飛びぬけてバスケがうまかった彼は、NBAのチームにドラフトで指名される可能性が出てきた。だが高校生がいきなりNBAの舞台で活躍する可能性は低く、高校生を指名するくらいなら即戦力の大学生を指名するほうが良いというのが大方の考えであった。

ドラフト前チームが開くキャンプでコービーの凄さに気づいた男がいた。NBAのロゴになった当時ロサンジェルスレイカーズのGMをやっていたジェリーウェストだ。コービーは昔から大のレイカーズファンでレイカーズへ入ることを望んでいた。

だがその年のレイカーズの指名権は24位でもしかしたらコービーが上位のチームに指名されてしまう可能性があった。そこでウェストはコービーはレイカーズ以外に指名されたら拒否するとの噂を流すことにした。これが功を奏し他球団はコービーを指名することを諦めた。

結果レイカーズは選手とのトレードでダラスマーベリクスから13位指名権をもらい13位でコービーブライアントを指名した。

   2.背番号8時代のコービー

コービーは現役時代8番24番という二つの背番号をつけてプレーをしていた。ここでは8番時代のコービーについて書いていく。

レイカーズでシックスマン(ベンチからの出場でチームに貢献する役割)として活躍していた彼は、2年目オールスターに先発として選ばれた。普段先発出場をしていない選手がオールスターにスタメンで出場することは異例なことだった。このオールスターでは神様マイケルジョーダンとマッチアップをするなど、歴史的な試合だった。

俺はジョーダンを超えると発言した彼は、強気な発言を度々していたことから世間から生意気などと言われた。チームメイトからも最初は嫌われたりしていたが、彼の練習熱心なところや本気でバスケを取り組んでいる姿勢を見て段々と理解されるようになっていった。

2000年から2002年彼はシャキールオニールとともに三連覇を達成した。当時コービーはアフロ姿でプレーしていた。

だが2003年サンアントニオスパーズに敗れたことからシャック(シャキールオニールの愛称)との関係が悪化した。

コービーとシャックの性格は対照的で、バスケが命のコービーに対してシャックは色んな事にも力を入れいてて練習を疎かにしてしまうことが多々あった。そんな彼が許せなかったコービーはシャックとぶつかうことも多かった。だがそれは優勝をしていたからお互いに許せることだったが、2004年優勝できなかったことでオフシーズンにシャックをマイアミヒートにトレードせざるを得なかった。

当時はバッシングされていたトレードだった。人気者のシャックをトレードしたことでコービーは自分勝手やわがままだと言われた。そしてこの頃性的暴行疑惑が彼に浮上し、スポンサーが下りるなど彼のイメージはどん底に落ちた。全米から嫌われものとして扱われていた。

2004-2005年シーズン、レイカーズはプレーオフ(プロ野球で言うクライマックスシリーズ)を逃した。シャックがトレードされたヒートは優勝に輝いた。この結果を受けてさらにバッシングされた。

そんな中コービはある偉業を成し遂げる。2006年1月22日トロントラプターズ戦で一人で81点を取りチームを勝利に導いた。一人で81点。これはウィルトチェンバレンの100点に次ぐ歴代2位の記録だ。

こんな偉業を成し遂げたが優勝することが目標のコービーはある決心をする。それは背番号を変えてプレーをすること。次章は背番号24時代のコービーについて書いていく。

  3.背番号24時代のコービー

選手が同じチームで背番号を変えることはとても異例なことで当時はこれまたバッシングされた。

この24にはいろんな意味が込められている。神様マイケルジョーダンの背番号が23であることから、彼を超えるため一つ多い数字を選んだ。24時間バスケに集中しているというアピール。色んな意味が込められている。コービーの狙いは心を入れ替えるためであった。

同じ時期に彼はもう一人の自分をブラックマンバと名付けた。ブラックマンバとは猛毒をもった蛇のことで、狙った獲物は逃がさない蛇のようにプレーしなきゃと考え自分にこのあだ名をつけることにした。自分にあだ名をつけることはめったにないが、今では彼の愛称に定着していてとてもかっこ良い。

このマンバが後に言うマンバメンタリティとよばれる基となる。

背番号も変え心機一転優勝を目指すコービーだったが、彼の所属するレイカーズはプレイオフ一回戦で敗退してしまうほどの弱さだった。彼はトレードを希望するようになったが、話がまとまらず実現することはなかった。

そんななか始まった2007-2008年シーズンは上手いこと進んでいたが主力選手が離脱したことで調子は下降していった。

またトレードを要求すると思われていたコービーにスーパースターが加入しパウガソルという選手が加入した。この選手が2連覇に大きく貢献することになり、結果的に素晴らしいトレードになった。

2012-2013シーズンなかなか調子の上がらないレイカーズをなんとかプレイオフに導くため34歳の彼は1試合40分出場を6試合続けていた。出続けて7試合目に悲劇が起きた。プレー中にアキレスけんを断裂してしまったのだ。ルール上ファールを受けた選手はフリースローを打たなければ交代は認められないかったため、断裂した足を引きずりながら2本とも成功して見せた。この根性と言えばいいのか分からないが、普通なら痛いことを理由にプレーをしないがこの男は大怪我をしてもコートに立ち続けたのだ。これぞ先ほど述べたマンバメンタリティだ。

8か月リハビリに費やし復帰したが膝を怪我しリハビリをし復帰しまた肩を怪我しリハビリというように満足にプレーをすることができなくなっていた。

当時世間は何度も怪我をするコービーに対して無理をしてほしくないという思いが増えていった。そして2015年11月このシーズンで引退することを発表した。

そして彼の引退試合。彼は60点という化け物スタッツを残した。もう一度言います引退する選手が60点を残したのだ。残り2分10点差で負けていたレイカーズは、コービー1人の力で逆転することに成功し勝利を収めた。

時間がある方は是非コービーのプレイを見てほしい。

そしてこれが彼のスピーチだ。

彼がキャリアで成し遂げた功績は数えきれないほどある。5度のNBAチャンピオン、1度のシーズンMVP、2度のファイナルMVP、18度のオールスタゲーム出場などまだまだここには書ききれないことが沢山ある。背番号8番と24番はレイカーズで永久欠番となり、史上初の1チームで2つの永久欠番を持った。そして8月24日はロサンゼルスではコービーブライアントの日として祝日になった。

もっと詳しく知りたい方はRikutoAFさんがYouTubeで動画を出しているのでチェックしてみるといい。

さてここまでは選手としての彼について書いてきたが、次章はプロとしての彼、彼の生き方について書いていく。

【2】コービーブライアントのプロとしての生き方

  1.真似できない練習量

彼があれだけの功績を残せたのには生まれ持った才能だけではなく、努力というこの2文字は外すことはできない。プロだから努力練習して当たり前だと思うかもしない。だが彼の練習量は真似することはできないものだ。

彼の1日はこうだ。(試合がない日)

午前3時 起床

4時ー6時 練習

9時ー11時 練習

14時ー16時 練習

19時ー21時 練習

いくらバスケ選手でもこれは真似できない。私は野球が大好きだがここまで1日に時間を使って練習することはできない。

彼の偉大な功績の裏には誰にも真似することのできない練習量があったのだ。

私が彼から学んだのはプロとしてこうあるべきだということ。私はプロでもなくただの高校野球児だったが彼のこういった意識を自分の練習に置き換えて考えた。今は練習の時間だと、友達とのおしゃべりはいつでもできるから今は野球に集中しようと考えるようになった。これを知ったのが高3のときだったのでもっとはやくマンバメンタリティを知りたかった。

マンバメンタリティをきっかけに私はすべてのことに全力で取り組もうと考えた。授業中は寝ないや移動中暇なときは携帯をするのではなく本を読んですこしでも自分を高めるなど時間を大切にして生きるようになった。マンバメンタリティは私の尊敬するAKIOさんの考え方とも共通するものがあった。スポーツに限らず私生活にまで影響を与えてくれたコービーには感謝しかない。

  2.周りの目を気にせず自分の道を行く

コービーのプレイスタイルには賛否両論色々あった。81点を記録した試合もシュートを打ちまくって決めたので、打ち過ぎや自分勝手だなどネガティブな意見もあった。だが彼はそんなことを一切気にせずずっとプレースタイルを変えなかった。

普通ああだこうだ言われたらまわりを気にしてしまうところを彼はプラスに変えて今に見てろよと心を入れ替えてプレーしたそう。

私はこれまで周りの目を気にして行動を制限することがあった。だがこれからは自分の信じた道を歩んでいくことに決めた。人生何が起こるかわからない、もしかしたら明日死ぬかもしれない。だから今を全力で生きる。

これに関連するので書く。あいつがやるから俺も私もの選択をしてきている人本当にそれは自分がやりたいことなのかを考えるといい。その時間にこれを使うことが正しいのか判断できる自分を持たなければ時間はあっという間に過ぎて後悔することになる。だから自分という人間を持とう。

自分がやりたいこと目指していることを馬鹿にするような人の意見は無視して前を見て進んでいこう。人はそれぞれ価値観が違く色々な意見を持っている。だから理解してくれない人がいるのは仕方がない。だからこそ自分を理解してくれる人を持つことを勧める

【3】まとめ

コービーが残した言葉にこんな言葉がある。

「すべてのネガティブ、プレッシャーやチャレンジは成長するための機会だ」

この言葉の意味を私はしっかりと理解して今を生きている。

だから昨日彼が亡くなった時も最初はとても悲しかったが、この言葉を思い出した。へこたれて今日生きることをコービーは望まない。こんな時彼だったらどういう気持ちで生きるんだろうと。彼の死を意味のあるものにするために、もっと人間として強くなっていく決心をした。この世のすべての人間が彼の死から学びまた立ち上がることをコービーは望んでいるだろう。

彼から学んだことはこの先の人生で活きる事ばかりだ。私は彼のように生きることはできないかもしれない。だが1人のコービーファンとして彼の残した"LEGACY"(遺産)を色んな人に伝えたい。彼は死んでしまったが、私の心には一生残り続けるに違いない。

【4】さいごに

昨日の事故で亡くなられたブライアント家その他全員のご家族のご冥福をお祈りいたします。9人が亡くなられました、その中にコービー氏と娘のジジさんが含まれています。9人の尊い命を失ったことはとても胸が痛いです。私は命の尊さに改めて気づかされたのと同時に命の儚さにも気づかされました。これを私だけではなく本記事を読んでくださった皆さんにも気づいてほしいという願いから執筆するに至り、私なりの哀悼の意を表して本記事を書かせていただきました。最後までお読みいただきありがとうございました。

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