ジャッジと安心感と。
久々の文字の羅列です。
noteが自分の思考整理とログ残し程度の役割しか担っていない感じがしているんですが、それはそれで自分にとっていいのかもしれません。
じゃぁ、なんでわざわざ人様が見えるところに公開しておくのか?と問われると困ったりするんですが。
多分あれです、僕を知ってほしいんでしょう、きっと。
先日、嬉しいことがあって、僕は「その場に居合わせるだけで安心感がある」と言われたことです。
仕事終わりに後輩に言われたことなんですけど、たまたま同じ日に同じようなことを言ってくださる方もいて、僕はそういう感じの人間なんだろうか、とうっかり自惚れそうになります。
そういえば、思い返せば、昨年の年末にも飲みながらそういうことを言ってくる友人もいて、現時点で3人もいるなら、これはあながちまんざらでもないかもしれない、とかちょっと思っちゃうこの頃です。
いや、これはただの便益性を追求した結果ではないのか。
んー。
まぁ、そんなことを思っちゃったりするわけですけど、僕はそういう感じで調子にのると、だいたい痛い思いをするので、ほどほどにはしておきます。ただある程度、そういう需要があるのかもしれません。
わー。
「わー」ってなんだ。
ここ2週間くらいよく目についたり、意識の上に上がってくるものに、
「判断する」
「自分より能力が高いかどうか」
「価値があるか」
みたいな感じのものがあります。
以前、誰かに言われたことがあるんですけど、僕はどうも上から目線の時があるみたいです。
言われる前から知ってることではありますが、確かに僕はそういうところがあります。
これがどこから生まれたのか、はわからないんですけど、それこそ宮崎さんが描いた「風立ちぬ」の堀越二郎さんばりの感じでしょうか。
実際の堀越さんがどうだったか、はわからないんですけど、価値がない人間だと思った人に関しては徹底的に無視してたりしますしね、あの人。
多分、僕もそういう時期がそれなりにあって、今でもつい癖で、ジャッジしてしまうことも多くあります。
自分よりものを知ってるのか、自分より技術があるのか、自分より思考は柔軟なのか、とか。
僕は結構、無意識にやってたりするんですよね、ジャッジするってこと。
意識的にはなるべくジャッジしないように、って思ってるんですけど、つい感情的になる時は発動してたりするので、怖いものです。
今はだいぶましになったとは思うんですが、それでも未だに僕がイライラしてたりする時は、自分よりも年上だったり、経験者だったりする人が、自分よりも発想が固かったり能力が低かったりする時が多い感じがするんです。
特に偉そうにしてる人が自分より能力が低い、とわかった瞬間に僕は結構毛嫌いするような気がします。
よく友人には期待しすぎだ、なんて笑われてましたが、そういうのも結構あるのかもしれません。
やっぱり、僕は偉そうにしてるなら僕より優れていてほしいと思ってたりしますし、年上ならそれこそちゃんとしててほしい、と思ってるんでしょう。
感情的になればなるほど、その思いは強くなる感じはします。
もちろん、冷静になれば、そんな発想は微塵もなくなるんですけど、奥の方にまだ眠ってるんでしょうね。
時々、ひょっこり顔を出す時があって、それが無性に嫌な感じがします。
これの真因は一体なんなんだろう。
ただここ数年、この辺りの思考グセを矯正するような動きをしてくれる方が多いので、そこまでそういうシーンに出くわすこともなくなってはいます。
ありがたいことに。
この時代、ジャッジしないっていうのは、とても大事だなぁとよく思っています。僕はすぐ感情的になってしまう人間なので(周囲はそうは思ってないみたいですけど)、そういう時にどれだけ自分に待ち時間を準備できるか?がとても大事です。
そうじゃないと、すぐに相手を判断して、アクションしてしまう。
インターネットが広がった今、自分と発想が違う人間ってものすごく見えやすくなっているので、相手の思考を勝手に想像して判断してしまうと、色々もったいないように感じます。
自分ができることは、必ずしも他の人も簡単にできるわけではないですし、自分にできないことが相手もできない、とも限りません。
自分の現実は過去の記憶、もっと言えば、過去の自分の意図と行為でできてたりするわけですから、相手を考慮せずに早い段階からジャッジするということは、本当の相手の凄さや存在価値を見抜けぬまま、関係を終わらせてしまう危うさを持ってたりします。
純粋に傷つけてしまうこともあるでしょうし、何より自分にとってなんのいいこともない気がします。
それこそ自分勝手という言葉がとても似合う行為そのもののようなきがするので、おっさんになってしまった僕もそれだけは常に気をつけつつ、穏やかに物事を捉えたいなぁとよく思うものです。
きっと「その場に居合わせるだけで安心」ということを言ってくれる人というのは、そういう僕みたいにすぐに判断せず、普段からじっくり人を見た上で感じ取ることを心がけている人なのでしょう。
ますます自分も見習いたいなぁと思うものです。
たぶん、価値みたいなものは、そーいうささやかなもののような気がするなぁ。わかりやすいものやお金に紐づいてるものほど、見せかけな感じがするのはそういうことなのかもしれません。
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