配慮の反対は制度

個人に配慮するというのは、えらく手間と時間のかかることである。
事情をきく、理解する、その人のための最適な方法を考える、そのようにすることに周りの理解を得る。そうして初めて配慮した何かをすることができる。
オーダーメイド、ハンドメイド、一点もの、手作り、そういうのと同じだ。

しかし大量にさばこうとすると、人が予見し把握し判断し理解できる範囲は限られているから、どうしても、大体の人にあいそうなものを予め作っておくことになる。いちいち全体決議は取れない。
とくに人数の多いところでは、どこの誰がそのポジションでも仕事が回るように、とにかく標準化することになる。
それが「制度」であって、個別のケースを考えない、迷わない、コストをかけないための策だ。
年功序列の定期昇給なんてのはその最たるもので、個別の評価判断のコストを払わないことにする、という決断のあらわれである。

だから、「個人に配慮した制度」というのは、
「一人ひとりにフィットする既製品」というのと同じく、ひどい自己矛盾をはらんでいる。

こんな中でどうすればいいのか、正直なところ、私にはわからない。

自分の裁量でできる範囲で、最大限融通を利かすことしかできない。
制度に逸脱するギリギリのライン上を歩くことしか、できない。
制度を変えても、制度が制度である限り、一人ひとりに配慮したものにはどうしたってならないのだ。

どうしたらいいのか、わからない。

====
追記。

この際、制度を諦めて、全員個別にこと細かく条項を決めて契約を結び、労働者側も使用者側もなにか変えたかったらつどつど変更契約を結ぶしかない気がしてきた。
人事や法務や総務が激務になる未来だけれど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?