見出し画像

アートライティング・フォー・(しかし、それらもまた風景である。)〈Art writing for ⅷ-ews with a lot of views〉#4 

イントロダクション

前回はこちら#3

 本稿は笠松咲樹さん作「(しかし、それらもまた風景である。)」のアートライティング記事です。私はアートライティングを〈芸術記述術/記述芸術術〉と捉え、本稿を書いています。本稿を通して(しかし、それらもまた風景である。)の面白さが伝わればと考えています。コメント等で解釈などのご指摘あれば記事に追加してゆこうと考えています。

 案内人と訪問者は瀬戸秋月の船着場から住宅街に入って行きます。
 このプロジェクトは、移ろいゆく風景のなかに、見立てという日本独自の風景の見方を挿入することで再構成することを提案し、また同時に、見立てが持つ、モチーフを、それ固有と思われていたスケールや機能から解き放つ再解釈可能性について言及するものであります。

このプロジェクトは、移ろいゆく風景のなかに、見立てという日本独自の風景の見方を挿入することで再構成することを提案し、また同時に、見立てが持つ、モチーフを、それ固有と思われていたスケールや機能から解き放つ再解釈可能性について言及するものであります。

レジメより

移ろいゆく風景のなかに「見立て」を重ねてみる。それは日本にもともとあった独自の風景の見方だ。 浮世絵 和歌 漢詩を分析し、風景の描かれ方を探る。すっかり変わった今の風景に少しだけ手を加えて、風景を再構成する。固有の寸法や機能から モチーフを自由に解き放つ。​風景の再解釈可能性について考える。無数のとりとめのない風景もまた風景になりうると思うのだ。​​訪れる人々が“風景の見立て方”を獲得していくことを期待し、金沢八景をめぐる10㎞のルートを設定した。8つの視点場を設定し、その先の現在の風景を改変した。8点を順を追って巡るにつれて読み解きのためのガイドが徐々に薄れる。 このグラデーションが 無数のふとした風景もまた「風景」であることを、訪問者に示唆するものであってほしい。

ホームページより

https://twitter.com/sakasamatsu


内川暮雪概要

和歌 内川暮雪


ホームページより引用

木陰なく松にむもれて
暮るるとも
いざしら雪の みなと江のそら
(松の陰を歩いていくが道程ははるか
旅の終わりを待つ甲斐もなく日々はすぎていく
いつの間にか海にも雪が降り積もっているようだ)

p.140より

内川暮雪までの道

 瀬戸秋月の船着場から出た二人は住宅街に入って行きます。そこはどこにでもあるような風景たちです。作者はそれらも一つ一つスケッチして描いて見せます。

p.22〜p.23の地図

 スケッチと本文から雪見橋を渡ったことがわかるので、このような経路に近いかと存じます。長い散歩です。この移動する感覚が一つのテーマであるようにも思われます。

住宅街を歩きましょうか。いかにも散歩らしく。細かな家々を抜けると長いまっすぐの川があるのです。美術館はまっすぐの川に寄り添うようにしてあります。
 これから歩く雑多な路地も全て愛すべき対象の集積です。

p.146より

 ところで、私は最近写真を始めたのですが、都会に住む私にとって都会という風景は面白いものではありません。そこに景を見出すことはとても難しいように感じられます。この作中の散歩で見える風景も、最初私にはそういう風景に見えました。私の日常にある景色は、すでに風景以下に霞んでしまったのか、そう思うと辛くなります。逆にいえば、笠松さんの論はそういう退屈さに真っ向から異論を唱えている訳であります。様々な工夫がありました。透明なものや反射を通す、奥行きを探しフレーミングをしてみる、カキワリと見立てを使う、そしてそのシミュラークルを使う。ですが、今の私の技術では都会を美しい一枚に収めることは出来ません。それは写真の技術であるとともに、何かを見出す能力の問題かもしれません。

 二人は雪見橋を渡り、侍中川を降って行きます。侍中川は人工的に作られた河川であるようです。川沿いには公園があり、大学のキャンパスがあります。関東学院大学金沢八景キャンパスです。更にそれを先に進んで行くと、細長いヘビのような建物が見えてきます。案内人が企てた美術館のようです。

雪道の東海道中五十三次美術館


ホームページより引用
ホームページより引用


p.139


 この美術館は四方がガラスで覆われています。入り口から入って左側が川で、右側は校舎と公園です。天井は平らで白いものです。床は柔らかそうな絨毯でできていて、建物の中央だけ少しだけ低くなっています。

 訪問者はまるで白蛇のようだ、と感じています。

美術館らしくないというより、もはや建築らしくない白蛇のような空間に静かに踏み入る。入り口からは蛇の腹が奥行き方向に向かって徐々に垂れ下がっていって、中央が一番低く川面までおりているのがうっすらと見える。

p.159上段より

 中には人の背丈ほどの壁が点在しています。一見するとそこには何も飾られていません。しかし、進んで行くと壁の裏側に東海道五十三次の浮世絵が飾られていることがわかります。振り返りながら浮世絵を見て行く建物です。
 館内には何ヶ所か三日月型のベンチがあります。

 風景を見るために振り返る、なんだか奇妙な感覚です。

慰留する雪

 ここで作中にある詩を詳しく読んでゆこうと思います。この詩は本作の中でもとても印象的なフレーズを含んだ一作です。一部抜粋しながら鑑賞したいと思います。

 旅人はしばしば、さびしいといった。さびしいといいながら、ワタシが差し出す手を疎ましがって裾を払った。
 さびしいといいながら、ワタシを振り払った。

p.157 「慰留する雪」より

 〈ワタシ〉とはすなわち雪でありますから、旅人が振り払いたいものは雪による寒さも含むでしょう。それを慰め止めようとする雪との奇妙な対比が描かれて行きます。

ただただ降り積もるワタシを、降り積もる時間だといって見つめながら、恨めしそうに踏みしめた。

p.157〜P.158

 旅人にも私たちにも、雪はただの雪に見え、街はただの街に見えるようです。
 踏みしめられた雪は旅人に染み入ります。雪はつきまとうようです。

 旅人はワタシが寄り添おうとするたびに、さびしいと言った。自身を奮い立たせるように震えた声でさびしいと言った。
 
 さびしさは、ベクトルを持った孤独感だ。

p.158

 私はさびしいという孤独感なのか?と不意に思い知らされる、この時旅人は立ち止まっているように感じられます。旅人は誰かに「さびしい」と言っている訳ではなく、何者かに寂しさを語っているような方向性のある孤独な存在に見えるのです。

 旅人は、眩しすぎる雪けむりに霞む前方だけを見据え続けるには、少々孤独すぎた。さびしさが身体を運び、孤独感が暖かそうな家ときた道を振り返り振り返りさせた。
 (中略)
 ワタシは淡々と降り積もった。淡々と引き留めた。

p.158より

 この詩は美術館の設計思想を教えてくれるとともに、一個の作品として面白いように感じられます。

テーマ 長い道のりと忘却


 この建物は雪と川をモチーフとしています。立ち並ぶ54枚の壁は降り積もる雪であり、流れ行く川です。絨毯は足跡は残りますがやがては消えてゆく雪を連想させます。緩い曲線状のガラスの外壁は周辺と室内を区別しません。しかし、ガラスと水辺は、透明性はあり見晴らしは良いけれどそれ以上先には行けない、という共通点があります。外壁は水的であります。
 元来、美術館は横向く動作的な感覚が多いのですが、この美術館では外壁に絵が飾られていないため横には向きません。横には透明なガラスがあるのみです。代わりに立ち並ぶ壁がありその裏に浮世絵が飾られています。そこにある動作は振り返り後ろを向くというものです。

 作中にある「さびしさはベクトルをもった孤独感だ」というフレーズを思い出すと、観者は建築物によってベクトルを与えられていることに気付きます。それは進行方向と、その逆です。緩やかな床のスロープは滑り落ちる感覚に似ています。前進する河川の感覚です。河川の感覚は何もかもを洗い流してしまうベクトルです。振り返るベクトルは壁の裏によって作られています。
 振り返る時、人は前方と周囲から孤立して、〈前の風景〉を忘れます。動作としての忘却とでも申しましょうか。

 考えてみると、美術館や博物館に友人と行くと、友人のことを忘れるようなことが度々あるのではないでしょうか。周りの人を忘れてしまう感覚が元来美術館にはあって、それをこの作品は体験として提示しているように思われます。

 最近、デザインという概念が持つ二つの側面というものを考えさせられることが多いです。先日行った「機能と装飾のポリフォニー」展は美術館を回転しながら巡るのではなく、いくつものブロックに分けられた順路を交差するようにして展示されていました。そして展示内容も近現代のモダニズムのデザインの変遷についてでありました。笠松さんが以前おっしゃられていた「機能と意匠を兼ね備える概念がデザイン」ということだと思います。

 本作の建築の意匠は雪と川をモチーフとしてモダンに、そして違和感あるものとして作られた点が意匠(装飾)であるとしたら、そこにある美術館という忘却の性質を問う動作は機能といえるでしょう。美しくデザインされた空間は動作を含んでいるということでしょう。

 下記の右にあるイラストレーションちょっと不思議に見えませんか?

ホームページより

 これは意図的に床と天井がすれて描かれています。手法として一つの機能を満たすため、動的な奥行きを追求した一枚だと私は感じます。3Dで正しく描写された内装も作内で示されますがこの一枚がいいと私は思います。意識の流れ的だと思いませんか?

 この章はどこかエレガントでダイナミックな思想的な作者の側面が見れる気がいたしました。


 続く#5

宜しければサポートお願いします。