秘する女神_表紙

秘する女神のコラージュ セルフキュレーション

 本作は全六章のプレイポエムと、二十五編の詩から成立しています。長さから考えてnoteに向かず、一章のみの公開となりました。

 下記のカフェにてお求めいただけます。

 一応、縦書きで読めるプラットホームでも試してみました。

pixiv 秘する女神のコラージュ 2呪いの乙女、祈りの娘

 1~3まで公開しています。

 本作は昨年十一月に完成しました。

 本作は小説とは呼べない一面を持ちます。作中に物語的カタルシスは用意されていません。プロットもありません。便宜的に、V・ウルフの独自の呼称「プレイポエム」と表記させて頂いています。

 断続的にnoteに投稿している詩の一部は「秘する女神のコラージュ」からの抜粋です。

 主人公達は歩いています。歩いて、対話しています。ですが、基本的には一人です。

 本作のキュレーションに幾度か挑みましたが、やはり、私には難しい様に思われます。

 物語的快楽を捨てている訳では無く、物語的なるものに対する疑問が、ある様に感じられてなりません。私達は常に、何等かの物語の中に閉じられています。時に、無自覚に自縛を強め、空洞化します。

 物語を追い求め、例えば「作家になる」と意気込み、認められる作品を必死になって書くかも知れません。それは「作家になる物語」の内側に閉じられている事になり、〈認められる作品を書く〉と云う画一性に閉じられています。その中で、個人の独自性や多様な様があるでしょうか?

 近年は〈書く事に飢える〉と云う流れにある様に思われます。各云う私も書く事に飢えている人間です。

 一方で、書く事とはツールの問題です。〈書く事に飢える〉と云う事は裏返せば〈書く事に飢えさせるツール〉がある事でもあります。そして、書いている人間はどれほど読むのでしょうか?表現出来るツールが増えると同時に、何処か強迫的動向がないでしょうか?

 逆に読み手は、余りに特定のものを期待しすぎるのではないでしょうか?

 表現出来るツールがもたらされても、表現出来る自由性が在るとは限りません。

 書く事への飢え、考える事への飢え、作る事への飢え、読む事への飢え、愛する事への飢え、愛される事への飢え、愛しくも息苦しい欲求の嵐の様です。

 本作に登場する人物を私は愛おしく感じますが、愛おしいとされる人々ではないかも知れません。

 ご意見ご感想などお持ち申し上げています。

宜しければサポートお願いします。