私と彼の物語 #3話
いよいよ、抜歯当日。
終わった後に、彼の家に行ける。一人にならなくていい。これだけでよかった。
一人で歯医者に向かった。
「抜きますよー」
「ひゃい…」
閻魔大王が持っていそうな銀色の大きなペンチ。
そんなこと言わなくていいから!抜くペンチなんて見せなくていいから!
右の2本を抜いて、左はまた来週となった。痛すぎる。
顔を変形でもさせられたんじゃないか。もう顔面が歪みそうで、口の付け根が痛くて、口全体の血の味しかしなくて。私は足早に、彼の家に向かった。
「いらっしゃい」
「…コンニチワ」
「その様子だと、痛かったみたいだね。いいよ、必要以上に話さなくて」
こくんと、頷いた。
先輩と話すこともできないのに。私は何しにきたんだろう。彼女かよ。
ただただ歯が、口が痛くて、血の味が恐怖と痛みを思い出させるしかなくて。
「ナニカシャベッテオイテモラエマセンカ」
「え?」
「…静かだと、血の味がして、痛さしかないので。何か一人で話してもらえませんか」
「…お〜、先輩に対していうねえ。ま、いいけど。何が聞きたい?」
今はただ、この人がイケメンかどうかなんてどうでもよかった。ただ違うことに集中したかった。
「何でも」
「…じゃあ、気になってる子の話、してもいい?」
「…どうぞ」お好きに。何でも。気になってる子がいるくせに、仮に後輩でもある私と二人きりで家にいるってどうなんだ。誘った私も私だが。
合コンで知り合って2年ほど経つ女性と、どうやらうまくいかないらしい。以前は週に3,4回は会っていたが、それが今では月に1回会うほど。しかも会う時は、毎回百貨店でウィンドウショッピングで、ランチは彼の奢り。
それってただの金ヅルでは…?…可哀想なオトコ。
半分付き合ってそうだけど、そうではないらしい。
まあ、大学生の恋愛ってそういうところあるよね。
イケメンな先輩、それしか知らなかっただけに、何だかとんでもなくちっぽけな男に見えてきた。
「どこが好きなんですか?」
「どこなんやろなあ」
「は?」
「わからへんねん、でも。なんかもう情が湧いてきてるせいか、諦めたらいいとか思わへんねん。どうしたらええんやろか」
…これは。ウケる男だ。
声が出ないのをいいことに、目を瞑って考えるふりをして、うなづいた。
いや、それはもう時間の無駄でしょ。そんなことに貴重な時間使って何したいんだろ、このバカ男。でもその女からしたら、ラッキーなんだね、うん。
「その彼女とは、どんな思い出があるんですか?」
「彼女からもらった、思い出のプレゼントはなんですか?」
「彼女のかわいいところは?」
質問だけを投げかけ、彼は3時間以上ペラペラと話す。
女よ、こんなに思われて幸せなんだから、不憫な男を救ってあげなさいよ。
とはいえ、人の不幸話ほど面白いものはない。大学の講義なんてちくわ耳で過ぎ去っていくのに、彼の恋バナ?というか、一人の男の虚しい話、は、簡単に記憶できていった。ご馳走様なことである。
「はあ、面白かった。今日は帰りますね、先輩。また明日」
「え、明日もくるん?!」
「だって、夏休みですもん、どうせ暇でしょ?」
「………………………………」
そうして、私たちの長くて短い夏が始まった。
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