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「まるでチョコレートが溶けるようにベットの底へ潜っていく」

喉の炎症で発熱し、寝込みつづけて3日が経った。
喉の違和感。水でも食べ物でも何かをのみ込むと、圧倒的な存在感を持った痛みが首の内部にどくんと走る。その度に自分の精神が一つの狭い空間に徐々に押し込められていくのを感じる。のっそりベットから這い出すと自分の体の輪郭がグラリと揺れて二重、三重に、ぼやける。
発熱による目眩。病院へ行き
「まあ、風邪には色んな種類がありますからね。とりあえず9割のウイルスに聞く薬出しときます」と処方された薬をちゃんと用法に従い、朝、夜の食後に飲み、手洗い、うがいをし、なるべく清潔に心がけながら回復を待つが、それでも喉の炎症は熱と腫れを両腕に携えて鎮座する仏像の様に、首の中にどっしりと居座っている。
昼下がりの午後。外の光が閉められたカーテン越しに、おぼろな光となって部屋の中を照らし、遠くを走る車の音は距離と障害物により輪郭を失ってしまっている。
そんなひっそりとした部屋の中に設けられたベットの中で目を瞑り、横になる。
ぐっすり眠り、朝起きるとすっかり回復した自分の姿を期待して毎回眠りにつくのだがその期待は、寝起きのさらに悪化した喉への痛みにより真冬の夕陽のようにいつの間にか消えていた。
今はただベットの中で布団を首までかぶり、暖かく安静にし、喉の乾きも無視して何も望まず何も期待すまいと努めるようになった。裏切られた期待は怒りになるが、消え入る期待は虚しいがいくぶん静かだ。望みや期待を考えなくなったが、そのかわり意識は自分の全身に行き渡っている血液や神経の事を考えるようになっていた。
「体内を循環する無駄の無いシステム」について意識を巡らした。
その精巧さに関心したり、また同時にその頼りなさについて考えていると、黒い革手袋をはめた誰かの片手が自分の首を掴んでいる事に気がついた。
首を掴まれ締められてはいるが、呼吸ができない程ではなく、じんわりと圧力を与えてくる。同時に革の匂いがあたりに強く立ちこめてだしていた。
ゆっくり目を開けると黒い革のジャケットと黒い革のパンツを履いた男が、ベットの隣に置いてある椅子に足を組んで座り、自分が寝る前まで読んでいたヘミングウェイの『老人と海』を読みながら、すっと伸ばした右手で首を絞めていた。
男は他人の本を勝手に読みながら首を絞めている。
まるでずっとそうであったように、まったく違和感を感じさせない。
そんな状況だが不思議と恐怖心や不快感がない。
それが風邪で寝込んで思考が正常に機能していないからなのかはわからない。ただこの男が自分に対して怒りも憎悪もまた優しさも慈悲も何の感情も抱いていない事も理由のひとつなのだろう。
男は視線を本から逸らさず、話し始めた。

「波の飛沫が飛び散る描写が印象的でまたそれがこの作品の象徴でもある。飛び散った飛沫は海の過酷さを表していると同時に老人の魂の残り火も表している」

その声は音の無かった部屋をひさしぶりに震わせた。 そして男が口にする言葉には妙な説得力があり、なぜここにいて、なぜ首を絞めているのかという疑念も強制的に受け入れさせる力があった。
男は一呼吸おいてから続ける。

「それは冷たくもあるし熱くもある。そして一瞬だが永遠でもある」

読んでいる時に想像していた黒く日焼けし深いしわが何本も刻まれた作中の老人の顔が浮かぶ。船上で荒れる海や海の生き物達を攻略しようと必死に食いしばる表情。恐怖や苦痛と生きようとする生命力が作り出す表情。

「波の飛沫」「海の過酷さと魂の残り火」
「冷たくもあるし熱くもある」「一瞬だが永遠でもある」

目を閉じ、それらの言葉を反芻する。

すると言葉とは本来脳で処理され意味やイメージを起こすのだが、その言葉の持っている「純粋な要素のようなもの」が体の全身にゆき届いていくのを感じる。病んでいる体が自身の体の治癒を施すのと同じように、体が反芻する言葉の要素を理解しようと、ざわめいていく。
押さえつけられた首に革手袋越しに男の手の熱が伝わってくる。
首がベットにずぶりと埋まる。
意識は霞み、徐々に眠気が支配していく。

頭は眠り、体は治癒を施し言葉の要素を理解する。

するとまるでチョコレートが溶けるように首がとろりと伸び、頭部は胴体を残してベットの底へ潜っていった。
異変に気づいてとっさに目を開けたが、そこはすでに暗い空間の中で頭だけがゆっくりと底へ底へと沈んでいる。前方には丸い光が見えた。それはさっきまで寝ていたベットにできた穴だ。自分の頭が通ったこの暗い空間への入り口。ゆっくりと下降している。
光の穴は遠ざかって行き、どんどん小さくなっていく。それをじっと見ていると、黒い革手袋をはめた手がひょっこり出てきて、バイバイと手を振った。
痛みも苦しみもないが体の感覚もない。それはただ虚ろな感情を引き起こした。頭部はベットの底へゆっくりと潜っていく。
光の穴は見る見る小さくなって、ついにその光も見えなくなり、完璧な暗闇に包まれる。
空気の流れも匂いも音もない空間。遠ざかる光が無くなり、下がっているのかも止まっているのかも分からない。目を開けているのかも閉じているかも同じ暗闇で分からない。
基準を失うと機能はその意義をも失ってしまう。
どこに向かっているのかを考えるのも、この先何をするのだろうかを考える事も、基準のないこの暗闇の空間では何の答えもない。ましてや胴体の無い頭だけで何ができるというのだろう。
そうして長い時間、虚無の空間を漂い途方に暮れていると突然後頭部に固いものが当たった。とうとう底に着いたのだった。

底に着いても辺りは相変わらずの暗闇で無音だった。
だがさっきとは何かが違う。感覚を研ぎ澄ませてその違いを探る。

匂い。
うっすらと匂いがする。
それはひんやりした水の匂いだった。
水の匂いをはっきり認識すると次は岩の間を細々と流れる水の流れる音が徐々に聞こえてきた。
か細く今にも消え入りそうな水流の音。地上からは見えず、深く潜った場所にひっそりと確実に流れ続けている水脈に辿り着いていた。
水流の音がさらにはっきりと聞こえてくる。
一本ではない。
もっと数多くの水脈が流れている。
そしてここが大きな鍾乳洞の様な場所である事に気づく。
暗闇で見えないが何本も流れる水流は様々な方向から合流し、そして分かれ、それぞれの向かうべき場所へ流れている。
人知れず繰り広げられているサイクルなのだろうが地上に無関係でもないのだろう。
すぐ耳元からも水流の音がする。着地した自分の頭部のすぐ脇に細い水流がある事に気づくと、自分が喉の乾きを無視し続けていた事を思いだし無性にその水が飲みたくなってくる。上空を見上げて置かれてある頭部を横に向けようと顔を歪めたりして、悪戦苦闘してなんとか横に倒すと耳と顔半分がチョロチョロと流れる水脈に触れた。
口を開くとひんやりと冷たい水が口の中に広がり顔の熱が一気に冷え、腫れた喉の事を忘れて勢いよくゴクリと飲んだ。すると首から下は無いはずなのに首から水が零れ落ちない。そしてずっと苦しめられた喉の痛みもなく失われたはずの体中にその水が浸透していく感覚があった。
存分に水を飲み喉の乾きを潤すと、水脈から顔を離してゆっくり時間をかけて呼吸を整える。感覚はさらに研ぎ澄まされていき、様々な事を語りかけてくる。
鍾乳洞内には穏やかな風が吹いている事 、水脈の流れの中には小ぶりな魚の群れが力強く泳いでいる事、洞窟内の天井には無数の氷柱ができている事など。
さらに地上からその水脈の水を汲みに降りてきている人たちが少数だがいる事、その水脈の水から様々なものをつくり出して地上に影響を与えている事、ずっと昔から枯れる事なく流れ続けそしてこの先も決して枯れる事がない事など。
何本もの水流が交差し流れる音は轟音となって洞内に鳴り響き、霧のような水蒸気が風に乗って移動している。
感覚は言った。
こんなふうにベットの底では、いつも水脈の飛沫が舞っている。

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