しがらみ。

ただ人間の集まりがあっても、それは国ではないしただの集団。一箇所にただ集まっているだけ。国になると、そこには法があり、法と法外の世界が出来る。これまで勉強する限り「社会問題」とは大抵、法が制度が条例がーこうなっているからーこうする、書かれていないから書き足して欲しい、いらない部分を削除してほしい、といったようなものが多い(ように見える。)

それを成し遂げようと連帯して声を挙げる。

この声を挙げるときに、同じ考えの賛同者が集まり例えば政策を変えるという目標を掲げ、現状の政策を遂行している方々が敵になる。敵を見ることでより賛同者に連帯が生まれる。声を挙げていくプロセスでその連帯した集団の中から「さすがに過熱しすぎだ」「相手のことも考えるべきだ」などという意見が出て、内輪揉めしたりしながら。

国がある集団としてまとまるときに「中国が悪い」「韓国が悪い」というと、まとまりやすい。教室もそう、先生が悪いと生徒がまとまりやすい。学校もそう。学校の外に敵がいれば学校はまとまる。映画のインデペンデンス・デイと同じ。


政治では、声を挙げてもかき消される。というより少数派は少数派のままなことが多い。連帯しようとする側にも問題があるのではないか。

連帯、集まり、集合すると、そこに悪しき人間の癖というのか、悪いコミュニケーションが発生しているような気がする。社会問題が解決しないのはトップが、権力者が、という意見が多いし自分もそう思ってきたが(そう思っているが)一人一人にかなり原因があり、これがもっと人間の根深い問題だと思う。


何かが中々成し遂げられることはないが、それを成し遂げても、その集団のトップの人間に権力が集まる。結局、どこかに権力が生まれその権力がまた腐敗するという構造は中々変わらない。その権力者、あるいはまたそこに近い人間が差別心を持たないことが可能であれば、と思うけど。

例えば今の男性社会に散々苦しめられていたとする。「オッサン供に権力があって」、「SDGsもイメージばかり」、「5G(5じじい)」などなど!!!。晴れてそこから権力を奪う(という表現が正しいのか?)とする。そこでかわりに権力を持った人間が、過去自分を苦しめてきた人間と同じ属性(例えばオッサン)に対して差別心を持つ、ちょっときつく言う、その意識をゼロにできるのか。

例えばその方の子供や親族に対して差別的な意識が消せるのか、0にできるのか。

竹中平蔵に苦しめられてボコボコに叩く(俺も叩くけど)けど、例えば彼の息子、孫に対してはそれを一切向けない。彼に向けている視線を彼の親族や関係者には完璧にゼロに、無意識下でゼロにできるのかといった問題は「人類全員が」抱えている。

事実、橋下徹の幼少期や差別されていた過去を取り上げて、彼に差別する発言をする人間もSNSで見かける(彼の言動には賛同できないが。彼の育ちや出自は無関係だ。)


心の中で区分けの意識を消せない。私たちはこんなに苦しめられたんだから、というけれど。全員が加害者になる可能性を秘めている感じもする。怒りを原点とした活動で、権力が集中したり、誰かがまた犠牲になるということは特に空気の支配の国では自覚されづらいのではないか。


国があり法があり、法と法外の世界が存在する。法外に落ちないようにするべきだし、逸脱した人間には罰を与えるべきだという姿勢自体が怖い。生まれつきの問題から、法外に出てしまいそうになる、あるいは問題を起こした人間には、社会生活が営めるように「支援」をする。

社会自体が壊れていた場合、どうすればいいのだろう?、社会に適合してどうするのだろう?、それが先進国全ての問題。

国の中では学校があり、教育があり、必ずそれからこぼれる人間がいる。精一杯支援応援して学校に行けるようにするが、学校教育自体が軍隊教育であり、時には暴力になる。元々ナポレオンの頃から始まった国民国家自体がそういうもの。

障害者、男女差別、LGBTQやセックスワーカーの差別を許すなといった場合、私たちを社会の中に入れろ、政治の中に入れろ、教育を受けさせる権利を、などの意見を聞く。私たちを無縁から有縁の世界にあげろ、という聞こえる。

しかし本当にそれでよくなるだろうか?

社会問題に対しての一般的な意見はほぼ全て国民国家、法という体制を前提としており、それに頼りすぎている感じがする。法があって人間があるわけではない。人間がいて法があるのに。どこか絶対的なものとして語っている感じがする。

オードリータンさんは政府と民間の間に入るのが自分だと語っていた。

僕は法と法外の交通整理役が必要だと思う。

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